[附巻0183]【十三年庚申三月初八日、日本豊後の国三佐村の人、十四端帆船一隻に坐駕して、名護郡川田村の洋面に漂到する有り。】此の日、豊後の国三佐村の船主・舵工、庄吉・総太郎等四名有りて、十四端帆船一隻に坐駕し、名護郡川田村洋面に漂到して擱礁撃砕し、船上人等、杉板に移駕して上岸活命す。随ひて、用水飯糧を給して以て救恤を行ふ等の由、該郡夜番、朝廷に禀報す。随ひて即ち日本曁び本国の員役一同前みて該郡に抵り、其の情由を詢ふに、即ち云ふ、我等坐す所の船隻は、燈油を装載して、去年十一月二十五曰、本地開洋し、本年正月初六日、長崎に収到す。二月二十二日、該地開船す。゚んぞ想はん、洋中ユかに颶風に遇ひ、帆檣を坎去して其の漂流に任すを。有る所の用水飯糧は、底を撤して用ひ尽し、正に万死一生の際に在り。幸に貴国に到り、性命を保全す等の由。又其の来歴を詢ふに、即ち云ふ、庄吉・総太郎二名は、倶に禅宗に係り、玉之助・由五郎・嘉七の三名は倶に一向宗に係る。今、該総太郎は、洋に在りて病故し、屍体は尚船上に在り。乞ふ、地を択びて埋葬するを准せ等の由、該船主具禀して前み来る。随ひて、川田村の境内に地を択びて埋葬せしむ。其の四名に至りては、即ち宰領人を遣はして、陸より那覇に送到す。而して其の宿館飯糧は、例に照して照料す。且土民に着令して、難人に接せざるを除くの外、確に検束を行ふ。且其の蚊帳・衣服の具無きに因り、即ち蚊帳一項・帷子各一領、曁び日用の器物を給して、以て其の用に便す。此の年、舵工柏原の市郎左衛門の船隻に搭駕して、開洋して回去す。