[附巻0224]【二十二年己巳、医生三名を褒嘉して各功労を挙庸するを賜ふ。】医生、淑氏浜川親雲上順栄・毛氏浦崎親雲上安紀・呉氏亡松堂親雲上舒厚等三名、曾て倭に在るの時、牛痘の法術を学習す。回国の後、充てて牛痘掛医と為し、之れが主管と為りて克く調治を行ふ。客歳、メより回るの員役、天行痘痂を帯来する有るに因り、上憲、医生種に着令して、前みて羽地郡屋我地に赴き、其の痂を続種せしむ。而して牛痘已に染む者応に天行痘に再染せざるべきや否やの処を将て、多く歴験を行ふ。果して牛痘経過者に有りては、天痘再出せず。因りて、聖旨を請ひ、着令して天痘病を廃絶し、牛痘を続種す。夫れ庖瘡一案は、古より以来、十年余の久しきを歴る毎に、時宜を見察し、或いは医を華に遣はし、或いは医を倭に遣はして、痘痂を購来し、挙国一時に伝染せしむ。故に特に小児のみならず、出痘重きに就きて、医生の施療周からず。況んや諸薬療費曁び一切の費用に至るまで、預め備弁を致さざるべからざるをや。困窮の輩は、前項の物件を備弁する能はず、以て意の如く服薬施療し難し。遂に痘に染む小児、非命に死する者多く之れ有り。実に実に憐むべき者なり。而して其の父母たる者は、朝夕悲嘆し、或いは病症を興し、或いは身命を失ふ者亦已に多し。此れ誠に悲の上に悲を加へ、以て言を尽し難きものなり。牛痘に至りては、只其の種穴を生じ、毫も別生する無し。且服薬を用ひず、而して飲食嬉遊も亦平日の如くして、全く痊を得。且其の種植たるや、四時と云ふと雖も、而も災害無し。更に気を以て人に染む無し。其の痘たるや、特に小児の疾苦を受くる無きのみならず、而も父母たる者は、甚だ愛を懐くを見る。挙国の家人等、皆、長生の福を受く。妙法書術と謂ふべし。該順栄等三名、牛痘の法術を将て、深く心服を致し、頻りに永く小児の患痘の炎を救はんと欲す。乃ち前に陳ぶる所の如く、其の法を学習し、其の試種続種して、以て真仮を見察するに及ぶを除くの外、一切の法術は深く鍛錬を致し克く調治を行ふ。而レて該順栄に至りては、牛痘法術の内、其の疑惑の処を将て、文書を編具し、貢搬入華の便に順りて、北京大医院曁び福州医師等に投呈して、其の批評を懇請す。去後准ずるの、両医の批書有りて云ふ、宜しく牛痘の法術を施行して可なるべし等由と。且該順栄は、西洋国・華倭両国、牛痘法術を施行して、天行痘を免かるること、曁び明医の批書・師伝等を将て、文書に編具して、朝廷に詳報す。随ひて、法に照して施行せしむ。果して其の詳する所と毫も異有る無し。夫れ前に陳ぶる所の如く、昔年は天行疱瘡に伝染するの時、害小ならずと為す。幸に客歳に至り、牛痘を種植して害を免るること維れ大なり。此れ即ち主上徳化の敷く所なり。然れども、該順栄等三名は、曾て心を牛痘の法に尽くし、今、効を国家の人に著はす。其の功小ならず。洵に嘉すべきに属す。是れに由りて、上憲旨を請ひ、順栄・安紀両名の功労を褒嘉して、王子の附医と一律に挙庸するを准す。而して亡舒厚は、若し今世に在らば、理として応に該順栄等と均しく挙庸を示すべし。但、該舒厚は不幸にして世を没す。因りて亦旨を請ひ、功を子孫に垂るるを准す。