[本文0007]【隋の煬帝煬帝屡々使を遣はして招撫せしむるも従はず。】隋の大業元年乙丑、海師何蛮、春秋二時の、大清く風静かなる毎に、東望するに、依稀として姻霧の気有るに似たり。亦幾千里なるやを知らず。三年丁卯、煬帝、羽騎尉朱寛をして海に入りて異俗を訪求せしむ。海師何蛮之れを言ふ。遂に蛮と倶に本国に抵る。遙かに地界を波濤間に観る。蟠旋蜿延として、其の形、テの水中に浮ぶが若し。名づけて流テと曰ふ(嗣後名を流求と改む。故に唐宋の史は皆流求と曰ふ)。言相通せず。一人を掠して返る。明くる年、帝、朱寛をして復至りて之れを撫せしむるも従はず。寛、我が布甲等の物を取りて還る。帝、復、武賁郎将陳稜・朝請大夫張鎮州等を遣はし兵を率ゐて国に至らしむ。其の軍甚だ衆し。時に稜、南方諸国人を将て従軍せしむ。其の軍中にuv人有りて頗る我が語を解す。稜、其の軍人をして之れを慰諭せしむ。国人拒逆して従はず。終に逆戦を為し、我が軍敗走す。稜、大いに軍兵を駆り、進みて城都に至る。頻りに戦ひ又敗る。稜、我が宮室を焚き男女千余人をエにし、軍実を載せて還る。爾より隋遂に絶ちて復は遣はし来らず。