[本文0010]【舜天王神号尊敦】附紀為朝公の一子尊敦、利勇を討滅して、大位に就く。】舜天王の父為朝公は、生得、身長七尺、眼は秋星の如し。武勇衆に出で、最も射を善くす。乃ち日本の人皇五十六世清和天皇の後胤六条判官為義公の第八の子なり。宋の紹興二十六年丙子(和朝の保元元年)、日本神武天皇七十四世鳥羽院と太子崇徳院とは、和を失し怨を構へ、各兵を招きて攻戦す。時に為朝公、鎮西に住す。崇徳院に投じて以て其の戦を助く。寡衆に勝たず、大敗して擒にせらる。諸将誅を受け、公は伊豆大島に流さる。宋の乾道元年乙酉、公、舟に駕して以て遊ぶ。暴風遽かに起り、舟人驚恐す。公、天を仰ぎて曰く、運命天に在り。余、何ぞ憂へんやと。数日ならずして一処に飄至す。因りて其の地を名づけて運天と曰ふ。即ち今の山北の運天江は乃ち公の飄至する所なり。公、上岸して遍く国中を行きて遊ぶ。国人、其の武勇を見、之れを尊び之れを慕ふ。公、大里按司の妹に通じて一男を生む。居処すること日久しく、故郷の念自ら禁じ難く、妻子を携へて還らんとす。乃ち牧港に至りて開舟す。数里を走り得て颶風驟かに起り、牧港に漂回す。数月を閲し、吉を択びて開洋するも、未だ数里ならずして颶風前の如し。舟人皆曰く、予聞く、男女同舟すれば竜神の為に崇らると。請ふ、夫人を留めて以て性命を全うせんと。公、已むを得ず、乃ち夫人に謂ひて曰く、吾と汝とは情鴛鴦を締び堅く金石を矢ふ。奈んせん天、人意に違ひ、倶に還ること能はず。乞ふ、汝、心を用ひて吾が児を養育せよ。長成の後、必ず大いに為す有るべしと。言畢りて各涙すること雨の如し。遂に妻子と相別れ開舟して還る。夫人、児を携へ、浦添に前み至りて居る。児は尊敦と名づく。荏苒の間、尊敦稍長ず。居動常と異なり器量衆に出づ。宋の淳煕七年庚子、尊敦年十五歳、才徳兼ね備はり、国人之れを尊び、推して浦添按司と為す。境内大いに治まる。正に天孫氏二十五紀の裔、権臣利勇権を専にし、遂に自ら君を弑して位を簒ふの時に会ふ。尊敦歳二十二、英雄無比、義を倡へ兵を起す。四方之れに応ずること響きの如し。尊敦、義兵を領し来り城を囲み、罪を問ふ。利勇怒りて曰く、先君徳無く、予、天命を奉じ立ちて国君と為る。汝は乃ち孤窮に匹夫なり。豈敢へて妄りに兵を動かすべけんやと。尊敦大いに怒りて曰く、汝、幼冲より深く国恩に沐す。義として宜しく忠を致すべし。豈天に逆ひて位を簒ふの理有らんや。吾、今義を倡へ賊を誅誅して以て天人の怨に謝せんと。言畢り軍兵を激励して一斉に城を攻む。利勇、兵を領して拒ぎ戦ひ、矢石雨の如し。尊敦、勇を奮ひ城門を攻め破る。諸軍、勢に乗じて闕庭に殺人す。利勇、力の施すべき無く、遂に妻子を殺し自ら刎ねて死す。国人大いに喜び、皆尊敦を推戴して以て大位に就く。