[本文0049]【附宮古の与那覇勢頭豊見親、初めて以て款を中山に納る。】大明洪武年間、宮古山の主、与那覇勢頭豊見親なる者有り。童名は真佐久。此の時、本島は兵乱大いに発し、防戦弑奪して干戈息まず。雄を争ひ勇を恃みて自ら島主と為る。是に於て、勢頭豊見親深く念へらく、騒動兵乱し民塗炭に陥る。聖国に来享して徳政に沐浴し仁風に涵游して以て人民を安んぜしめんと。一日、白川浜に往き、群黎を聚会して遨遊するの間、密かに船貌を沙上に作り、恭しく祭品を備ヘ、以て聖国の所在の処を示知するを乞ふ。夜闌更深、将に五更に近からんとす。衆星燦瑯、啓明焜翌ニして、東溟の内に、忽ち海国の形影有り、高く波面に出で巍y峩瑩然たり。豊見親、稽首拝礼し、以て鴻恩を謝す。即ち吉辰を択びて船隻を修造し、遍く神嶽を巡り香を焚きて許願し、帆を揚げ海に泛び、遙かに東北を指して去る。直ちに中山に至りて王城に進み至る。丹庭の枝樹枝葉蒼青たり。皆国殿に向ひ、猶、徳化を慕ふがごとし。豊見親、之れを心に感ず。帰島の後、群黎を招会し相与に商量して中山に投誠す。且八重山宇武登嶽の神と宮古山平屋地の神とは、素是れ兄弟なり。而して往来聘問す。是れに由りて其の二神相共に確議し、毎年款を納れ誠を輸す。