[本文0053]【竜舟競渡の説。】旧記に曰く、昔、久米村・那覇・若狭町・垣花・泉崎・上泊・下泊等の爬竜舟数隻有り。今那覇・久米村・泊村の三隻有りて、四月二十八日より五月初二日に至るまで、唐栄の前江に競渡し、初三日、西の海に浮べ、初四日、那覇港に競渡すと。世譜に云ふ、毎年五月竜舟競渡す。是れも亦三十六姓のメ人国に至り、然る後始めて此の舟を造り、江に競渡すと爾云ふ。俗諺に曰く、昔長浜大夫なる者(姓氏未だ伝はらず)有り。命を奉じてメに入り南京に赴く。已に竜舟を倣ひて回り来る。即ち五月の初、舟を造り競渡して以て太平を祝す。而して其の大夫、曾て那覇西村に住す。今、其の地を呼びて長浜と曰ふ。是れに由りて毎年五月初三日、竜舟に乗る者、必ず白帷子を著して以て西の海に泛ぶと爾云ふ。一説に曰く、南山王弟汪応祖、嘗て南京に至りて監に入り業を肆ふ。時に竜舟の江に競渡するを看て、心甚だ之れを慕ふ。已に本国に帰り、地を豊見にトし、江に臨みて一城を築建し、以て栖居を為す。之れを名づけて豊見城と曰ふ。此の時、汪応祖、中華の制法に倣ひて、竜舟を創造し、五月の初、那覇江中に浮べて以て玩楽を為す。人皆之れを看、亦竜舟を製す。初四日に至れば、各邑の竜舟必ず城下に至り前江に競渡して以て呈覧に備ふ。今世に至り、毎年端午の前一日、那覇・久米村・泊村の爬竜舟三隻、必ず豊見瀬威部前に到り、豊見城祝女恭しく祭品を備へて以て景福を祈る。竜舟人等も亦津屋に登り豊見瀬に向ひて以て拝礼を行ふこと此れよりして始まると爾云ふ。然り而して歴世久遠にして従りて稽詳する無し。