[本文0064]【山南王汪応祖も亦封を朝に受く。】永楽元年、承察度薨じ、嗣男有ること無し。汪応祖に遺命して国事を摂せしむ。是れに由りて従弟汪応祖、隗谷結致等を遣はし、方物を貢し、承察度の薨を以て訃告し、兼ねて襲爵を請ひ、并びに奏して山北王の例の如く冠服を賜はらんことを乞ふ。成祖、礼部尚書蹇義に謂ひて曰く、国必ず統有り、衆必ず属有り。既に能く大に事ふ。又能く衆を撫す。且旧王意を属す所なり。宜しく言ふ所に従ひ以て遠人を安んずべしと。遂に使を遣はし詔を齎して国に至らしめ、汪応祖を封じて山南王と為す。賜、請ふ所の如し。汪応祖、使を遣はして恩を謝せしむ。其の使臣擅に処州に詣り磁器を市す。礼部尚書李至剛、其の不法を言ふ。成祖曰く、遠人は利を求むるを知るのみ。朝廷の遠人に於けるや、当に之れを懐くべし。之れを罪するに足らずと。