[本文0067]【[向思紹王神号君志真物(遺老伝に紀す、思紹の父、名は鮫川大主と称す。乃ち葉壁の人なり。居を佐敷間切新里村場天の地に移す。遂に大城按司の女を娶り、一男一女を生む。其の男は思紹なり。女は場天祝と称す。思紹長成し、居を苗代村に移す。当時の人、苗代大親と称す。苗代大親、佐敷村美里子の女に通じて佐敷小按司を生む。小按司は即ち巴志なりと。又曰く、美里大親・平田大親は其の兄弟なりと爾云ふ。然れども籍湮び世遠く虚実弁じ難し。故に世譜の重倫闕疑の義に遵ひ、敢へて強ひては記さず)。]附紀巴志、父思紹を奉じて王と為す。】思紹、佐敷按司為りし時、會々琉球分れて鼎足の如く、兵争息まず。其の嫡子巴志を見るに、英明神武にして雄才世を蓋ひ、誠に世を治め民を安んずるの能有り。遂に巴志をして立てて佐敷按司と為らしめ、而して自ら退きて老を養ふ。巴志、果して義兵を起し、中山を討ちて、父思紹を奉じて君と為し、自ら能く父王を輔翼し、政を発し仁を施し、功有る者は賞し罪有る者は罰す。臣民皆悦び、中山始めて安し。[即位元年(明の永楽四年両成)]