[本文0087]【十二年、内官柴山、千仏霊閣を創建す。】明の宣宗又内官柴山を遣はして国に抵らしむ。此の時、柴山復自ら資を捐して閣を我が国に建つ。名づけて千仏霊閣と曰ふ。何れの地に建つるか亦考ふべからず。柴山碑記に云ふ、粤に、大明、基を開き、六合を混一してより、東は海に漸し、西は流沙を被ひて声教四海に訖ぶ。凡そ遠方の国に在りては、を捧げ、帛を執りて来貢せざるは無し。時に東夷、東海の東に遁居し、中華を阻つること数万余里。水に蛟竜の虞、風濤の悍有り、陸に丘陵の険、崖谷の危有り。県郭の立無く、丞尉の官無し。汗樽杯飲するは尽く其の俗なり。然りと雖も亦屡々所産を朝に貢し、永楽の間も亦常に其の貢を納る。洪煕紀年の初、正使柴山曁び給使中行人等の官を遣はし、勅を奉じて王爵を褒封し冠冕を頒つ。仍前王を祭らしめ、其れをして君を尊び上に親しむの道を知り、仁義・礼楽の本を篤くせしむ。天朝の恩以て加ふる無し。当今、聖人継ぎて竜馭に登り、旧章に率由す。宣徳二年、復正使山を遣はし、独り其の事を掌らしむ。距ユして以て之れを詢ふに、則ち、其の王、己を上に欽しみ、王相、政を下に布き、其の俗皆礼法に循ひて煕々如たるを見る。宣徳三年、本国使を遣はし貢を朝に帰す。夫の五年にtび、正使山復勅を承けて来り、茲に重ねて聖化を宣ぶ。淮海の往還、滄波万頃にして舟の虞、風濤の患、朝夕艱辛す。惟天是れ頼り、思ひて以て良心を表はす無し。遂に三軍地を墾き基を営み仏寺を建立す。之れを名づけて大安と曰ふ。一は以て恩育の勤に資し、一は以て諸夷の善を化す。寺、卒に既に成り、六年、事を卒りて命を復す。宣徳八年、歳癸丑に在るにtび、天朝、甚だ忠孝を嘉し、特に福建方伯大臣に勅し、重ねて宝船を造らしめ、衣服文物を領賜して以て之れを労ふ。日夜海洋に棲跡するの間、三軍安全の歓有り、四際風濤の患を息む。或いは夜神光を見、或いは朝瑞気に臨む。此れ天地竜神護佑の功なり。何ぞ其れ至れるか。是に於て弘仁普済の宮を重修し、泉を引き井を鑿ち、宮の南において大安・千仏霊閻を鼎造す。凡そ諸夷に在りて化に向はざるは莫し。宝閣既に成り仏光厳に整ふ。八月秋分、又白竜高く掛りて以て其の祥に応ずる有り。此れ嘉祥の兆なること良に自る有り。遂に碑記を立てて以て其の事を紀し、万世の下聞きて知る者をして、咸、天朝徳化の盛を仰ぎて同に美を前人に趾づけしむ。因りて書して記と為す。閣を建つる者は故柴山と云ふ。