[本文0091]【尚忠王神号伝はらず。附記山北監守の制を定む。】尚巴志王、山北の城地嶮岨なるを恃みてまた変乱すること有るを恐れ、特に次男尚忠に命じて山北を監守せしめ、今帰仁王子と称す。後、尚忠践祚し、仍旧制に遵ひて子弟を封ず。是れに由りて今帰仁世々監守し、著して定規と為す(尚徳王、驕傲奢侈にして宗を覆へし祀を絶つ。是れに由りて貴族の徒皆世を遁れて隠る。即ち今帰仁間切下運天村の所謂百按司墓は其の貴族の墓なり。墓内枯骨甚だ多し。又木龕数個有りて以て屍骨を蔵す。修飾尤も美、皆巴字金紋を銘す。而して一個の稍新しき者の壁に字有りて云ふ、弘治十三年九月某日と。此れを以て之れを考ふれば、則ち其の貴族、尚真王代に至りて老尽せしならん。此れ其の証なり。然れども人没し世遠くして墓窒鼾恫Iはる。今、人之れを問へば則ち運天村の人曰く、裔孫已に絶へ掃祭する者有ること無しと)即位元年(明の正統五年庚申)