[本文0101]【尚泰久王神号那之志与茂伊又は大世主と称す。附紀布里・志魯、王位を争ひて両つながら傷つきて倶に絶ゆ。】宣徳乙卯、巴志王、五男泰久を越来に封じて越来王子と為す。景泰癸酉、會々金福王薨じ、世子志魯将に位に即かんとす。時に王弟布里、威勢甚だ盛なり。乃ち言ひて曰く、吾は巴志王の子に係る。宜しく父兄の業を承けて立つべしと。志魯怒りて曰く、汝は乃ち王弟にして世子に非ず。豈妄りに兄王の業を奪ふべけんやと。布里大いに怒り兵を発して攻撃す。志魯も亦兵を擁して拒ぎ戦ひ、両軍混殺す。満城火起り府庫焚焼す。布里・志魯両つながら傷つき倶に絶え、朝廷賜ふ所の鍍金銀印も亦鎔壊を致す。国人議して、王弟尚泰久を推して大位に就かしむ。即位元年(明の景泰五年甲戌)