[本文0109]【附宮古山の空広、中山に入覲す。】大明天順年間、宮古山に空広なる者有り。生質敏捷、才智群に超ゆ。幼稚の時より島大立大殿(乳名は真佐盛大殿)に供奉す。大殿、恒に之れ寵愛すること、恰も珍宝の如し。其の家事を将て悉く皆委管す。大殿已に老衰に及び、男、後手盛及び空広をして宮古の政事を摂治せしむ。大殿病卒するに至り、後手盛、父の家統を継ぎ、陞りて島主と為る。中山に貢朝して帰り来るの時、姑米山に漂至し、ユに疾病に染みて早已に世を棄つ。空広、遂に明主の命を奉じ、陞りて島主職に任じ、豊見親と称す。後年に至り、赴きて空広中山に到り、以て覲朝を為す。時に隆恩を蒙り金銀簪を賞賜す。弘治年間、八重山謀叛の時、朝廷に具疏して、子弟を率領し、大将に跟随して八重山を征討し、以て平治を致す。空広、貢賦を制定し、又中山に入り、治金丸・藻玉一顆を賀献す。次男祭金豊見親は擢んでて八重山頭役と為り、彼の島を鎮守す。三男知理真良は他の兄に服従して又八重山に到り、遂に名田大知の女を娶りて彼の島に栖居し、子孫繁昌し富貴栄華す。