[本文0122]【附腓城由来。】遺老伝に説く、尚徳王薨じ世子幼冲にして国人皆叛く。王妃・乳母、世子を擁着して以て乱難を避け、皆真玉城に隠る。軍兵追ひて之れを弑し、遂に之れを王城巌下に葬る。其の屍骸は至霊至明にして影響を捷ぼす。人皆此の地に到りて求祈するの所と為す。近世に至り、真壁郡真栄平邑の人、首里に寓居し、大姓家に供奉す。一日、蛯閧ト事務を為し、将に重罪に坐せんとす。其の人、日夜愁を抱き自ら安んずる能はず。往きて腓城に至り、誠愨許願して曰く、願はくは、神能く此の誠に鑒み、憐を野人に垂れ、其の罪を救ふことを賜はらば、請じて其の骨を吾が邑に奉じ、孫々子々世々頼りて瞻仰せんと。則ち神霊果して験あり、洪庇已に速にして、其の罪を寛恕せらる。真壁の人、喜び望外に出づ。恭しく祭品を備へて恩を謝し願を還す。遂に夜深く人静まるを俟ち、窃に此の地に至り、其の骨骸を盗取し、宮里嶽内に奉安して昼夜懈らず、世々崇信を為す。時に一腓骨を遺す。後世の人亦腓骨を奉尊し、之れを尊ぶこと神の如し。之れを名づけて腓城と曰ふ(子孫の内より選びて根所殿主と為し、時に焚香を行ふ)。今世に至り、毎年七月初九日、真壁の人の子孫、倶に宮里嶽に聚り、焼酒及び神酒等を奉献し、子孫皆庭中に出で、七次環旋し鼓を敲くこと百次にして祭祀す(真壁の地に別に二屍骸有り。或いは説く、一は乳母一は侍婢なりと。一説に、昔新垣邑は祭祀の節毎に、真栄平村の祝女、其の事を兼ね掌る。由来已に久し。後年に至り、新垣村の人、村人を選擢して将に祝女を設けんとす。真栄平祝女、肯へて之れに従はず。遂に二村の人民諍論して決定する能はず。是に於て二村和議して曰く、両祝同に神嶽に到り、逆に苦竹を地に插し、若し竹の生ずる者有れば、当に其の職を授くべしと。両祝允諾し、倶に宮里嶽に到り、虔誠告祈して逆に苦竹を插す。新垣祝女栽うる所の竹、蚤已に枯死し、真栄平祝女の竹、已に繁盛を致す。是れに由りて新垣祝女満面羞を含み自刎して死し、其の侍女も亦殉死を致す。人皆之れを憫恤し、其の二屍骸を将て倶に此処に葬ると。此の二説歴年已に遠く、敦れか是なるを知らず。