[本文0123]【[尚円王神号金丸按司添末続王仁子(王、践祚の次月、神の出現する有りて此の号を進む)。王、生得、徳威儼然として竜鳳の姿・天日の表有り。並びに足下にe有りて色黄金の如し。未だ位に即かざるの時、泊村の人大安里なる者有り、一見して曰く、此の人、億兆の上に居るべしと。]附紀尚円王伝説。】尚円王金丸、生れて賢徳有り、父を輔けて耕を為す。宣徳九年甲寅、金丸年二十歳にして父母倶に喪ふ。時に弟、宣威は五歳なり。金丸、憂苦し、農を以て業と為す。天旱に遇ふ毎に民田皆涸れ、金丸の田のみ独り水漫漫たる有り。人皆疑ひて水を盗むと為し、常に金丸と睦じからず、或いは将に之れを害せんとす。金丸言の弁ずべき無く、正統三年戊午、歳二十四のとき、竟に田園を棄て、自ら妻弟を携へて海を渉り国頭に至る。既に居ること数年、亦此くの如し。金丸心を尽くして之れを待するも、終に容れられず。正統六年辛酉、歳二十七のとき、又妻弟を携へて始めて首里に至り、身を王叔尚泰久(時に泰久は越来王子たり)に托す。尚泰久、其の居動大いに常人と異なるを見て、之れを王(尚思達王の世)に薦め、始めて家来赤頭と為る。勤職数年、同僚敬信す。景泰三年壬申(尚金福王の世)、歳三十八にして黄冠に陞る。後、尚泰久位に即き、景泰五年甲戌、内間領主に任ず。僅かに一年を歴るに、百姓大いに服し、名世に聞ゆ。天順三年己卯、歳四十五にして御物城御鎖側官に陞り、敬以て君に事ヘ、信以て人を使ひ、賞罪理に当ひ、言行法るに足る。那覇四邑、其の教化を受け、海外諸島に及ぶまで、感服せざるは莫し。王、素より之れを信じ、凡そ政事有れば必ず金丸を召して相議す。天順四年庚辰、王薨じ、世子尚徳立つ。資質敏捷にして、才力人に過ぎ、知謀自用にして賢諫を納れず、巧言非を飾り、擅に良民を殺す。金丸進みて諫めて曰く、臣聞く、君王の道は、己を持するに徳を以てし、民を養ふに仁を以てし、務めて民の父母たるに在りと。今、王朝綱を廃し典法を壊ち、妄りに忠諫を防ぎ、擅に無辜を殺す。父母の道たるに非ざるを恐る。伏して願はくは、広く忠諫を納れ、痛く前非を革め、賢士を挙げ不肖を退け、政を興し仁を施し、民を視ること子の如くすれば、則ち民怨弭むべく、社稷安んずべしと。王、怒りて曰く、我に順ふ者は賞し、我に逆ふ者は罰す。汝焉んぞ敢へて妄りに我を諫むるやと。袖を払ひて起つ。厥の後、王、久高に幸し、例に遵ひて祭を致し、還りて与那原に至る。時に、駕に随ふ者皆饑色有り。王、駕を促すに急にして酒食を給せず。金丸諫めて曰く、先王は例として久高に幸するのときは、深く臣士の饑労を念ひ、必ず此の処に于て酒食を賜給し、然る後駕を起し、著して典例と為す。乞ふ、暫く駕を停め、之れを給せよと。王、勃然として怒色有り。群臣畏懼して言はず。金丸衣を曳き哭諫して敢へて退かず。而る後、王之れに従ふ。是れに嗣いで王、暴虐日に甚しく、金丸屡々諫むれども聴かず。成化四年戊子八月初九日、金丸歳五十四、天を仰ぎて嘆息し、致仕して以て内間に隠る。明年己丑四月、王薨ず。時に当りて法司世子を立てんと欲し、仍、典例に遵ひて群臣を闕庭に集め、此の事を説き知らす。群臣皆法司の権勢を畏れ、黙して言はず。忽ち一人の老臣の鶴髪雪の如き有り、身を挺し班を出で、高声に言ひて曰く、国家は乃ち万姓の国家にして一人の国家に非ず。吾、先王尚徳の為す所を観るに、暴虐無道、祖宗の功徳を念はず、臣民の艱苦を顧みず、朝綱を廃し典法を壊つ。妄りに良民を殺し、擅に賢巨を誅して国人胥怨む。天変累りに加はり自ら滅亡を招く。此れ天の万民を救ふ所なり。幸に今、御鎖側官金丸は寛仁大度、更に兼ぬるに恩徳四境に布き、民の父母たるに足る。此れ亦天の我が君を生ずる所なり。宜しく此の時に乗じて世子を廃し、金丸を立て、以て天人の望に順ふべし。何ぞ不可なること之れ有らんやと。言未だ畢らざるに、満朝の臣士、声を斉しくして允諾す。其の響くこと雷の若し。貴族近臣、其の変有るを見、先を争ひて逃去す。王妃・乳母、世子を擁着して真玉城に隠る。兵、追ひて之れを殺す。既にして群臣鳳輦竜衣を捧げ、内間に前み至りて迎接す。金丸大いに驚きて曰く、臣を以て君を奪ふは忠なるか。下を以て上に叛くは義なるか。爾等、宜しく首里に帰りて貴族賢徳の人を択びて君と為すべしと。言畢り、涙流るること雨の如し。固く辞して起たず。又避けて海岸に隠る。群臣追従し、言を極め力めて請ふ。金丸、已むを得ず、天を仰ぎて大いに嘆じ、竟に野服を脱ぎて竜衣を着し、首里に至りて大位を践む。而して中山、万世王統の基を開く。後、其の岸を名づけて脱衣岩(俗に其の岩を呼びて脱御衣瀬と曰ふ)と曰ふ。且西原間切嘉手苅村のいわゆる内間御殿は、乃ち金丸の旧宅なり。今、皆存す。