[本文0132]【附天王・崇元・竜福等の三寺を創建す。】成化年間、寺を創建し、天王と名づく。而して王廟の備と為す(弘治七年、尚真正、宗廟を円覚寺に創建す。故に天王寺を以て王妃廟と為す。即ち今、尚穆以下の諸妃の神主は、皆此の寺に奉じ、節々祭を致し、著して典例と為す)。王、又地を泊村の東南の間にトし、中山国王廟を創建す。而して廟側に寺を建て、崇元と名づく。其の制と家廟とは大いに異なる。冊封の時に会ふ毎に、則ち諭祭の礼は此の廟に行ふ有り。実に私廟の較ぶる所に非ず。故に是の廟たるや、舜天より下、惟れ位に即く者は、必ず此の廟に奉安す。而して春秋の二仲、中華の礼を以て之れを祭り、著して定規と為す(或いは曰く、本国冊封の大典を受くるは、尚巴志より始まる。宣徳年間、尚巴志、冊使を迎接す。此れに由りて此の廟を創建して諭祭の礼を行ふこと有らんやと。蓋し是れ誤なり。夫れ本国冊封の典を受くるは武寧より始まり、巴志に非ざるなり。諭祭の礼を受くるは察度より始まり、思紹に非ざるなり。此れを以て之れを考ふれば、則ち武寧より以て尚徳に至るまで、豈国廟の設無かるべけんや。況んや察度の世始めて中朝に通じ、太祖三十六姓を賜ひて礼法咸興るをや。則ち国廟の設有ること明らかなり。豈必ずしも巴志に至りて後、廟を設くるを為さんや。又曰く、察度の寿影、伝へて万寿寺に在りしも、万暦年間、火災の為に失はると。然れども今、察度・武寧・思紹・巴志の神主尚且万寿寺に留在すれば、則ち万寿寺は、乃ち察度・武寧の建つる所にして、思紹・巴志は続ぎて以て之れを用ひしや知るべし。後、泰久に至りて始めて天界寺を建つ。而して尚泰久・尚徳の神主は天界寺に奉安す。又遺老伝に云ふ、昔諸王、慈恩寺を以て廟と為す。其の廟と王城とは尤も近く、尚徳亡き後、其の貴族、廟に入り、時ならず泣哭し、其の声王宮に聞ゆ。是れに由りて尚円王、地を泊村にトし、改めて国廟を建つると云ふ。此れを以て之れを考ふれば、則ち武寧より以て尚徳に至るまで、皆各廟堂を設けて諭祭の礼を行ふこと有るや疑無し。毛氏大安里家譜に云ふ有り、尚円王始めて国廟並びに崇元寺を建つと。信に誣るに非ざるなり)。又寺を浦添村に建て、竜福と名づく。而して歴朝の王廟と為す(是れより先、元の咸煕年間、英祖王始めて寺を浦添城の西に建て、極楽と名づく。疑ふらくは是れ英祖の家廟ならんか。歴年既に久しく、荒壊に至り、乃ち浦添城の南に移建するも、又火災の滅する所と為る。是れに由りて尚円王、浦添村に移建し、改めて竜福と名づけ、並びに旧制に遵ひて以て歴朝の王廟と為す)。以上三寺は、皆、成化年間、尚円王建つる所なり。惟、年紀詳ならず。故に合せ紀す。