[本文0172]【附久米山に始めて具志川城を建つ。】往昔の世、久米島仲地村に仲地なる者有り。一日、具志川嶽に登り、材木を伐りて舟揖を造るの時、偶々真他勃按司の青名崎に於て将に石を堆みて城を築かんとするを聞く。仲地、往きて以て之れを視、乃ち按司に告げて曰く、吾此の地を視るに、山低く地狭くして具志川嶽に如かず。具志川嶽は、山秀で水明にして地甚だ寛闊、三面嶮岨にして鍾霊の地と謂ふべし。伏して請ふ、按司、宜しく城を彼の地に建つべしと。按司、之を聞きて大いに喜び、qに他の地に往き、遍く山川を巡り、遂に石匠をして大石を運び城を彼の獄に建てしめ、以て移居を為す。即ち神歌(俗に御唄と謂ふ)を作り、落成を奉頌す。嫡男真金声按司、既に父業を続ぎて亦此の城に居り、以て民人を治む。後、真仁古樽按司(伊敷索按司の次男)の為に減ばさる。真仁古樽按司、名を具志川按司と改めて其の城に住居す。時に、中山の、大兵を以て本島を討つに値ふ。按司之れを聞きて大いに驚き、急ぎ人民をして潜かに地に池を鑿たしめて城内に入れ、固く其の城を守り、敢へて出戦せず。官軍、其の城の鞏固にして攻め難きを以て、已に軍馬を収め、将に退去せんとす。時に、按司の養父世那節大比屋、乃ち官軍に告げて曰く、吾城中を視るに一点の水無く、密かに外地の水を引きて以て日用の資に備ふ。若し其の水溝を塞ぎ、水をして城内に入ること無からしめば、按司安んぞ出戦せざらんや。其の出づるの時を俟ちて之れを殺すこと甚だ易く、猶掌を反すが如きのみと。官軍、即ち彼処に往きて其の溝を埋塞し、水をして城内に通ぜざらしむ。按司、水溝の通ぜざるを見て、鉄}甲を穿ちて城門を外出し、臨みて水溝を視る。時に大比屋、大石を飛去して其の}甲を打ち砕く。按司、大比屋に向ひて曰く、汝は養父為り。姑く性命を饒さん。然り而して汝の子孫をして決定して長くは保たざらしめんと。且遺言して曰く、若し予、世を棄てて葬るのとき、必ずや膝より脚に至るまで、以て衣服を蓋ふべからずと。言ひ畢りて亡ぶと爾云ふ。窃かに按司の棺を視るに、正徳元年丙寅の数字有り。然り而して久米島は洪武の時より中山の轄地たり。此の時に至りて征伐すること有るべからず。吾、疑ふらくは、真仁古樽按司、常に威権を恃みて人民を暴虐し、或いは謀叛の心を懐くこと有りて以て朝貢を絶ち、正徳年間、中山、使を遣はして其の罪を征伐する者ならんか。歴世已に久しく、従りて稽詳する莫し。