[本文0233]【首里坊、榜を易へて守礼之邦と曰ふ。】本国、中朝に通じてより来、職を修め、貢を入れ、書を読み礼を学ぶ。即ち明の太祖、称して礼義之邦と為す。嘉靖年間、礼部奏して曰ふ、琉球は、海中の諸国に在りて、頗る守礼に称ふ。又尚永王、封を受くるの時、制詞に云ふ有り、世々職貢を修め、守礼之邦と称するに足ると。是れに由り、王、法司に命じ、始めて守礼之邦の四字を用て額と為す。然れども、平常は、止、首里の二字を用ひ、冊使賁臨するに会ふ毎に、易へるに守礼之邦の四字を以てして、例と為す。康煕二年癸卯、始めて榜字を定めて、守礼之邦と曰ふ。