[本文0380]【二十年、伊平屋の阿母加郡志、入りて聖上の大禧を賀することに改定す。】尚円王践祚するや、即ち姉、真世仁金を封じて阿武加那志と為し、金簪・珍珠(俗に加波良と呼ぶ)並びに衣服・錦緞及び金銀器物を送ヨして、以て世襲の位と為す(年俸弐拾斛。康煕年間、減じて稲米五斗・雑石壱斛を賜ふ。領地は、田畝壱拾弐石壱斗壱升七合余、畠壱石壱斗八合余、伊平屋八邑の男女、毎年使用すること一次なり。康煕年間に、悴者二人を賜ふを定め、其の使用を禁ず。殿宅並びに石垣は、素、帑金を発して、以て修造を為す。後宅地に移す。康煕戊辰の年、其の垣石を将て、以て玉陵を築くの用に備ふ)。此れより、両年に一次、親しく中山に至り、恭しく聖禧を祝す。康煕丁未、尚賢王、深く婦女の、遠く風濤を渉るを念ひ、朝覲の礼を恩赦す。而して、聖主に、大禧の事有る毎に、親しく中山に至り、以て慶賀を為し、且阿母加那志、家統を継ぐに至り、親しく中山に至り、以て謝恩を為すことに定む。永く著して例と為す。