[本文0453]【聖廟を久米邑に創建す。】万暦庚戌、紫金大夫蔡堅(喜友名親方)命を奉じて入貢す。時に、幸に聖廟に登り、遂に聖像を図して以て帰るも、未だ廟を建つるに遑あらず。但、唐栄の官員輪流して其の祭典を督理し、之れを人家に祀る。是の年に至り、紫金大夫金正春(城間親方)、廟を建つるを題請し、王其の請を允す。廼ち地を久米村にトし(此の地は、素、常徳寺を建つ。今其の寺を裁ちて此の廟を創建す。其の寺は泊邑の東地に移建す)、都通事金正華(赤嶺里之子親雲上)此の工を督造す。本年より工を起し、翌年成を告ぐ。越えて明くる年、正議大夫蔡国器(高良親方)督工官と為りて塑像す。廟に于て毎年春秋の二仲、総理唐栄司をして以て主祭と為らしむ。己亥年に至り、始めて大牢を用ひて以て釈奠の礼を行ふ。時に王、特に法司一員を遣はして以て主祭と為らしむ。著して定例と為す。