[本文0465]【貢船の員役海賊に遭ふ。】進貢の事の為に、耳目官向美徳(名嘉真親雲上朝衆)・正議大夫蔡彬(喜友名親雲上)等を遣はし中華に赴かしむ。癸丑三月初三日那覇開船し、十八日将に定海に到らんとするのとき、海賊船十三隻西南より来り、前後より囲擁し炮矢を放つこと雨の如し。貢船の員役力を奮ひて血戦し、辰時より申時に至るまで敢へて少しも怯まず。賊兵大敗し囲を解きて走り去る。貢船其の難を見るるを得てメ安鎮に到る。即ち査するに、其の戦に死する者共計六人、稍々傷を被むる者共計二十四人なり。四月初五日館駅に安插す。上京の員役は十月十三日起身して京に赴く。翌年甲寅、靖南王、天下に謀叛するの志有り。福建の衆官を召して密かに商議す。衆官皆敢へて従はざるは無し。此れより三月十七日まで靖南王親しく自ら大軍を率領し、延平府・建寧府等の七府を攻め敗り、即ち浦城の内、仙霞闕に到り、固く布陣して清兵と相戦ひ、贏輸未だ決せず。此れに因りて道路過ぎ難く、京に赴くの員役、延きて四月に至るも、奈んせん未だ回るを得ず。是に於て河口通事等と相共に商議し、若し曹ノ乗じて帰棹せざれば針路を失すること有るを恐れ、茲に各衙門に呈請し、五月十七日開船し、二十二日帰国す。