[本文0638]【新垣の妻、夫の命を教ふ。】豊見城間切に瀬長なる者有り。一夜、賊盗の為に刺殺せらる。末だ何人の刺殺するかを知らざるなり。只、頭巾一条、其の屋内に欠落する在るのみ。瀬長の族人、村人を招聚して其の頭巾を見せしむるに、村人皆曰く、昨、那覇の赤平川の僕、名は新垣と叫ぶもの有りて、此の頭巾を用ひて、此の邑を過ぎ去れり。則ち新垣の、瀬長を刺殺せしこと、決然疑無しと。是れに由りて、族人其の言を聞きて、獄官に告訴す。獄官人を遣はし、新垣を捕へ来り、瀬長を刺殺するの事を鞫問す。新垣未だ嘗て其の事を知らず。奈んせん、審問已に甚だしく、言の弁ずべき無く、遂に冤枉を得て、斬罪に処するを定む。新垣の妻、倏然之れを聞き、即ち獄内に往き、細さに其の事を問ふに、新垣涙を流して曰ふ、吾曾て其の事を為さず。然り而して拷問極めて猛しく、肉爛れ骨露はれ、疼痛比ひ無く、早死して易らかなるに如かず。此の故に斬罪を甘受すと。妻、其の言を聴き、昼夜眠らず各処を巡至して、密かに瀬長を殺害する者を尋ぬ。半夜に近く、行きて、渡地村に至るに、家に人の騒攪する有り。妻、深く之れを疑ひ異しみ、近く其の門戸に倚れば、則ち其の家の小婢、誤りて小罪を為し、家主深く責めて之れを笞うつ。小婢泣哭し、之れを罵りて曰く、汝已に人を殺傷して、未だ敗露を致さず。是れに由りて今夜聚会酒宴し、以て免低を賀す。何を以てか小過を痛責するやと爾云ふ。妻、仔細に之れを聞き、即刻りて獄官の宅に至り、此の事を告知す。獄官、急ぎ吏役を遣はして其の人を捉捕し、其の事を審明す。即ち知る、那覇東邑の新垣・渡地村の仲宗根・蔵の内宮城共計三人、倶に彼の処に往き、瀬長を殺害するを。是に於て、新垣、妻の、心を尽くし力を竭くして日夜密訪するに因り、纔めて獄外に出で、冤枉の難を免るるなり。