[本文1013]【附年浴一説・柴指二説。】遺老伝に説く、新穀既に熟して民の功も亦成る。故に必ず吉旦を択び、糯米を炊蒸して飯と為し、家々祖宗に薦献し、親戚に相贈りて、以て豊饒を賀すと。此の日、大台所は、恭しく御佳例盆を内院に献じ、且、時の大屋子、吉方(歳徳神所在の処)の二水を取りて以て王上に献ず。俗諺に曰ふ、耕業の時に当りて、牛馬已に労す。此の時に到り、少しく其の業を休ましむ。即ち農夫、此の牛馬を拉して池に臨み、沐浴せしむ。故に年浴と称するなりと。一説に、山留已に除かれて、世人川に到り撫水す。故に年浴の節と称すと。二説同じからず。孰れが是なるを知らず。y氏家譜序に曰く、往昔の時、兼城按司に一女子有り。年方に十六歳、秋八月の間、偶然にして卒す。即ち之れを金峯に葬る。次後三日、安平田なる者有りて、牛を牽きて野に出で、其の墓前を過ぐ。驟雨大いに降る。暫く墓に依りて雨を避く。少くありて墓c中より安平田の髻髪を謠Zす。安平田驚きて問ひて曰く、汝は是れ誰ぞや、何を以て我を謔ュかと。曰く、吾乃ち兼城按司の女子なり。寐睡の中、誤りて此に葬らる。煩はくは、汝此の事を吾が家に説知せんことをと。安平田、急ぎ往きて之れを告ぐ。時に其の家は、招魂通語の事の為に、覡巫、赤飯を霊前に設けて方纔めて拝礼す。忽ち此の事を聴き、親族大いに喜び、皆往きて之れを視るに、果然蘇生す。即ち覡巫をして外間崎に往きて、桑条及び薄株(俗に我伊奴草と叫ぶ)を取り来らしめて、妖気を攘除して、一斉に家に回り、其の赤飯を将て、親族に宴饗して、其の蘇生を賀す。亦其の晩間に当りて、妖気有らんことを恐れ、亦覡巫をして桑条・薄株を把りて、以て高処に登り一家を望察せしむ。而して一家安然として憂無し。此れに因りて、兼城按司、安平田をして婿夫と為し、入贅して家を継がしめ、遂に此の事を以て、聖聞に上達す。此れよりの後、王殿以下人家に至るまで、尽く其の事に倣ひ、桑枝・薄株を簷屋の間に指し、亦赤飯を炊作して以て神霊に薦め、親族に相送りて妖気を除去し、以て賀礼を為すと爾云ふ。一説に曰く、秋は物毎に収歛し、金気殺盛の力なり。故に慎しみて潔斎を為すものならんかと。此の二説、孰れが是なるを知らず。