[本文1085]【那覇の尤得昌、質資至孝にして、遂に褒美を蒙り還りて原籍に入る。】那覇泉崎村に一孝廉なる者有り。姓は尤、名は得昌、名乗は林盛にして、俗名は赤崎なり。乃ち尤廷芳(上間筑登之親雲上林実)の次男なり。父廷芳、貧苦已に甚だしく、資用欠乏し、倚告する所無し。奈んせん得昌を富名腰村糸数家に売去して、以て日度の資に供す。時に得昌は年十歳にして未だ成長を為さず。貶して百姓と為し、尤氏の家譜に載せず。而して得昌は、賦性敦倫、行事非凡にして、克く心力を尽して、家主に供奉す。家主深く之れを寵愛し、毎月定めて暇日を給す。得昌、力を田畝に尽し、未だ嘗て怠惰せず。年二十五にして数金を貯へ得て、以て身を贖はんとす。家主意想へらく、延いて数年に至らば、他をして家に回らしめんと。是れに由りて、贖身の心有りと雖も、而も未だ肯へて其の価を受けざるなり。此の時、父廷芳、家業貧乏にして、債銭極めて多く、計の施すべき無し。暫く平安山村に移りて、田畝を耕す。得昌、其の父の労苦を将て、家主に懇請す。家主、其の誠実敦倫なるを念ひ、身価を赦宥す。得昌謂ふに、吾、主恩を蒙り未だ涓埃を報せず。況んや身価を赦するを承くるをや、心已に未だ安からずと。再三強請して其の価を奉償す。此れよりの後、景運頗る臻り、数金を貯へ得て、即ち父の艪キる所の債を償ふ。且家宅を泉崎に買得して、請ひて父母を移し、能く孝養の道を尽くして以て父母の心を安んず。時に那覇に搬居せんと欲す。主婦曰く、先夫糸数已に亡く、妾が身老衰す。況んや児の金城、素より疾病に染みて、妾を養ふの人無きをや。汝は幼より使令するに、情誼甚だ深し。乞ふ、此の邑に居りて以て妾が身を養へと。即ち主婦、得昌に代りて宮城の女真玉を乞ひ、媒して夫婦と為す。此れに由りて仍富名腰村に住す。乙卯の年に至り、父廷芳、深く痰疾に罹る。良々久しく服薬するも、未だ効験を見ず。得昌夫婦、那覇に移居し、心を尽し力を竭して、膝下に侍坐し、昼夜懈らず。父、深く其の孝心に感じ、遺言して他をして祭祀せしむ。翌年の春、父已に身故す。哭慟已に極まり、哀愴且甚だし。遂に父の遺嘱に従ひ、恭しく神主を取りて、以て葬埋の礼を尽くす。又、見得泰、素より眼病に罹り、竟に瞎盲と為る、且弟及び妹等は悉く皆貧乏にして、躬、苦勤を受く。得昌、恒に兄に弟ひ○弟を愛するの道を尽くし、克く米銭を捐して以て補助を為す。而して、得昌は、父母に孝養し、親族に和睦して以て中外に聞ゆ。遂に村邑の酋長並びに親族等、法司に上達し、転じて聖主に疏す。壬戌の年に至り、褒嘉を荷蒙し、還りて尤氏の家譜に入り、筑登之に陞る。且細嫩白布二端・糸綿一把・花布二端を恩賜して、以て旌表を為す。