[本文0110]【[尚敬王]三十一年、向弘烈・毛景文、勢理客橋を改修す。】浦添郡驛の西、勢理客邑の東に一大江有り。源は郡南に出で、曲折奔流して小湾に至り、海に注入す。其の勢たるや、汪洋澎湃として徒渉すべからず。是を以て、往古の時より、石橋を創建して、民をして往還の便を得しむ。然れども、本国は徒らに橋梁の設有りて、而も之れを築修するの正法は、未だ嘗て之れを知らず。屡次、頽敗し、屡々修造を致して、其の憂に堪へず。乾隆辛酉の冬十二月、雹雨大いに降り、洪水横流し、氾濫すること已に甚しく、石橋も亦敗壊を致す。王深く徒渉の苦を慮り、已に農暇の時に当り、特に紫巾官向弘烈(真玉橋親方朝近)・察侍記官毛景文(高良親雲上盛伝)に命じ、其の橋を重修せしむ。景文、即ち蔡法司に随ひ、始めて洪水築橋の法を学び、乃ち其の境に往き、細さに其の地を相し、以て址基を西北に移して、此の橋を改修す。製、中華に傲ひて高大宏敞、而して築石基だ異なり堅牢壮観、逆流の怒と洪水の壊と有ること無し。