[本文1104]【赤田村具志堅の孝順弟友を褒奨し、特に白木綿布二端・嶋中布三端を賜ひ、其の妻に白木綿布二端・島中布一端を賜ふ。】首里赤田村の具志堅筑登之親雲上は、乃ち木匠師呉屋親雲上の第二子にして十九歳なり。父は、家、貧なるに因り、析分して居するも、父母の安否は、日として問はざるは無し。惟、父母年老いて貧困なるを憂ひ、常に所得の財有れば、則ち進めて之れを助く。曾て母病む。即ち妻子を携えて倶に侍して病を養ふ。既に五年にして、病、愈ゆ。其の用ふる所の薬資及び一家の食費は、倶に具志堅の力に出づ。兄有り、名は呉屋と叫ぶ。甚だ毒瘡を患ひ、力の之れを医する無し。具志堅、医を招きて之れを治す。父曾て歎じて曰く、今我農を以て生を為す。奈んせん、田地の首里に隣近するものは租重く、日に苦耕すと雖も、其の利を得る無し。若し一僕を得て以て幇手と為し、農を知念間切百名村に勤むれば、則ち必ず当に家を興すべし。只力の逮ばざるを恨むのみと。具志堅言を聴き、則ち妻子を顧みず、父の欲する所に従ひ、僕一名を買ひ、屋を彼の地に作りて之れを献ず。此れより父母、稍、裕なるも、猶其の食の粗なるを慮り、毎月、銭・米・茶葉・姻葉を助供す。後、復其の田里に衰老するに忍びず、竟に自ら屋を赤田村に買ひて、父母を安置す。父、疫を獲るに及び、具志堅夫妻、其の側を離れず、親ら湯薬を進む。其の母の病に於けるも亦然り。父母を厚葬するも亦具志堅の力なり。其れ茲に父の遺命に従ひ弟島袋を以て其の祀主と為す。則ち父居る所の屋を以て、島袋に譲与す。而して又其の家を助保す。今、祀主を重んじ、佳節に逢ふ毎に必ず賀費を助くること、亦親の在す日の如し。又外祖父有り。不幸にして其の子早世し、其の孫も亦幼にして、全く女婿三人の輪養に頼る。具志堅、亦屡々其の受用の費を助く。其の先を祭るが如きも、必ず其の資を助く。外祖父病むや、具志堅夫婦、倶に其の病を養ふこと既に九個月、未だ曾て側を離れず、死後、祭葬の費も、復銭米を以て之れを助く。外祖母の病併びに葬に至りても亦此くの如し。具志堅、其の孫幼にして父母無きを憫み、常に家資を助け、書算を学ばしむ。後五主役と為り、メに到り、病に染み、帰国して遂に死す。人の外祖父母を奉祀する無く、今具志堅、之れを祭る。