[本文1127]【羽地間切田井等村の川上、屡々穀銭を発して以て民の急を済ふ。】川上親雲上は、年二十にして掟と為り、後諸吏職を経て地頭代に終る。人と為り勤倹、竟に家富を致す。其の同郷の貧民の、食に乏しきを見れば、便ち米を貸して、以て其の急を済ふこと、再三に止まらず。後其の力の償ふべき無きを憫み、既に其の米九石余を免ず。乾隆三年に至り、其の郷民多く賦米・丁銭を欠く。而して且食に乏し。川上又米二十石余・銭八百貫余文を発し、郷民に借与す。後漸く其の債を収め、其の利息を免ず。乾隆五年痘行はるるや、又米を発して、貧民に各々三升を分与す。