[本文1182]【天使国に臨み、王爵を冊封す。】冊使翰林院侍講全魁・編修周煌、正副使に充てられ宝船に坐駕し、六月初十日、接貢船と一斉に五虎門開洋し、十五日姑米山仲里間切真謝港に収泊す。十八日、王、御書院当向廷器(浦添里之子親雲上朝孝)・長史魏献芝(牧志親雲上)を遣はし、帖・礼物を齎らして姑米山に詣り、冊使の安を請ふ(事竣りて、七月初四日を以て朝に回る)。二十八日、又平等側毛彩清(座喜味親雲上盛長)・中議大夫毛如苞(和宇慶里之子親雲上)を差はし、礼物を齎具し、姑米山に赴き、復冊使の安を請ふ(事竣り、七月初九日を以て朝に回る)。二十四日の晩間にて於、颶風大いに作り、封舟以て維住し難し。夜の寅時に於て、繩索ツ断し、真謝の黒礁に擱壊す。両冊使即ち詔勅・幣帛を捧げて登岸し、文武員弁より以て兵丁梢役に及ぶまで亦皆上岸して恙無し。七月初一日、王、封舟の懐を以て、一面、法司・紫金大夫等の官に命じ、姑米山に往き、諸事を督率せしめ、并せて礼物を具へ、冊使の安を請ふ(法司馬宣哲宮平親方良廷・紫金大夫阮為標与古田親方、命を承けて使と為り、七月初三日に於て、覇港開船、順風無きに因り、暫く座間味間切与辺名浦に泊して風を候つ。初五日本処開船、対頭の逆風に遇ひて、駛せて座間味喜瀬浦に入り、暫且、舟を維ぐ。初七日夜の寅時、封舟此の処を駛過す。法司等の官即ち別に小舟に駕して、封舟にケ近し、国王の名帖・礼物及び本款・手本を逓し、以て国王差来督率の意を達す。次日早間、本処開船、夜の亥時、那覇港内に収入す)。一面、別に船隻を備へ、向成訓(仲田里之子親雲上朝知)を遣はし、梢役を宰領して那覇より開駕、馬歯山座間味間切喜瀬浦に泊し、初四日、姑米山に詣る。初七日、天使の登舟を請ひ、随即開駕し、初八日那覇港内に至る。王、尚承基(具志川王子朝利)を港口に遣はし、封舟を迎接す(旧例を査するに、王子を遣はして出迎すること無し。茲に貢使毛元翼・蔡宏謨の報に因れば、云ふ、礼部の諭を奉ずるに、此の次未だ接封大夫を遣はさず、封舟の国境に入るを侯ちて、則ち当に大臣を遣はして之れを迎ふべきは、方に礼に合すと為すと。故に王子を遣はして迎ふ。此の外委員請安すること皆旧例の如くして行ふ)。王も亦親しく唐船堀前迎恩亭に詣り、恭しく使節を迎へ、虔んで聖安を請ふ(迎恩亭は、本、通堂崎に在り。其の狭小なるに因り、故に唐船堀前に権に造る。冊使曾てメに在りて、貢使に諭して曰く、冊使国に到るの日、国王親ら使節を迎へ、躬ら聖安を請ふを合礼と為す。前封、法司官を差して詔勅を迎ふるは礼に合はざるなり。此の次、出京の後より経る所の地の大小官員、皆親迎の礼有り。福州に至り亦督撫両院より以て庶官に至るまで、皆洪山橋に詣りて、恭しく聖安を請ふの礼有り。且朝鮮・安南を冊封するの時に於て、二国の世子も亦親迎の礼を行ふ。惟、琉球は行ふこと無し、甚だ不恭に属す。爾等之れを国王に達し、此の礼を挙行せよと。貢使此れを以て王に奏し、王、親迎の礼を行ふ)。既にして、王、天使を待する七宴の礼竣り、冊使九月二十六日に節を捧じて登舟す。是の日、王、那覇に臨み、恭しく節印を送る。十一月初七日、封舟解纜す。而も風、順ならず。仍つて那覇港に回る。厥の後西風勁冽なるに因り、能く開洋する莫し。二十日に至り、仍りて冊使の下船入館を請ふ。遊撃船に至りては、本、封舟と偕に一斉に開洋し、六月十四日に至り、亦幾んど姑米山に近づく。然れども風波の険なるを以て、前み行くこと能はず。掉頭飃流す。二十七日に至り、温州港に飃入して本船壊る。因りて以て諸れを是の処に置き、人は則ち復福州に回り、別に一船に駕して、九月初四日に福省開駕し、十二月十一日、始めて覇港に到る。十五日、遊撃、王城に登り、王安を請ひ、併せて膺爵を賀す。王、南風殿に入らんことを請ひ、行礼相見す。既にして摂政尚宣謨(今帰仁王子朝義)をして、陪坐宴待せしむ。翌年正月十六日、王、遊撃を南風殿御番所に請ひ、相見の礼畢りて亦摂政尚宣謨(今帰仁王子)に命じ、宴に陪せしむ。又楽工をして之れが為に歌舞せしめ、以て之れを待す。二十八日に於て、封舟、遊撃船と旧に依りて登舟す。王、亦仍りて那覇に臨み、恭しく節印を送る。三十日、封舟開駕するも又順風無し。是の晩、馬歯山安護浦に収入し、抛ロして湾泊す。二月初四日早間、本処開洋し、十二日メに到る(冊使、安護浦に繋舟するの音信は、二月初一日、王府に報到す。理として応に礼物を具して以て請安すべし。隨ひて初四日に於て、王、御書院当毛文竜伊野波親雲上盛周・署長史蔡功熈具志親雲上等を遣はし、礼物を齎して以て行かしむ。而して封舟は、是の日早間に於て開洋し、相及ばず。差官等、十一日に於て朝に回る)。