[本文1233]【秋七月二十三日、久米島、其の廃地を修めて米粟を納むるに因り、有司を奨賜す。】久米島具志川郡有る所の加佐志原地区五千六百余坪・川場多慶原地区四千八百余坪、久しく水潦と為り、耕種する能はず。爰に溝(其の左右に石を築きて防と為す)を海に通じ、又其の水を洞中に注ぎて、以て耕種を為し、乃ち粟三十余石を得たり。又、端知与原及び志由密原地区凡そ三百九十余坪、海辺に崩落して、以て其の傍二千四百三十余坪の地、水灌を致して耕を妨ぐ。是に其の壞窒修め、砌石して畦二層を為り、溝を濬へて水を注ぎ乃ち粟六石余を得たり。又、大田・兼城・嘉手苅三村野路の土、田圃に崩落し、惟に耕を妨ぐるのみならず、且人馬以て往返し難し。是れも亦石を築き、畦二層を為りて、以て其の路を修し、以て其の圃を治す。乃ち粟三斛余を得たり。又兼城村の大溝・中溝久しく大雨を被り壊さるるを以て、是れに由りて、長田原・平等田原に約三十石の区及び那辺田原・講帝原・久波田原に亦十石余の区有るも、皆水を濯ぎ禾を養ふこと能はず。焉に於て、厥の溝道を修し、水をして順行せしめて、乃ち耕種するを得たり。此れ皆前任在番毛培基(新城親雲上安稠)、彼の島の夫地頭上江洲親雲上・耕作当仲間筑登之等に飭令して、之れが督率と為し、其の壊を修整せし以に、永く万民の福と為る。其の功、嘉すべし。是を以て在番新城親雲上に上布二疋を賞賜し、夫地頭上江洲親雲上に勢頭座敷位を賞賜し、耕作当仲間筑登之に黄八巻の位を賞し、太田掟上江洲仁也・浜川掟親川仁也・仲村渠目指大田仁也・嘉手苅目差糸数仁也・浜川目差与那城仁也・耕作当米次仁也・前任仲地目差仲松仁也・船筑仲兼久仁也・前任仲村渠目差浜川仁也・造船工玉那覇仁也等十人に、各々筑登之座敷位を賜ひ、船筑大城仁也・知念仁也・幸地仁也・樽知花・蒲戸与那覇・嘉那前田・武太当間・仁牛当間等八人に、各々赤八巻位を賜ふ。