[本文1244]【小禄郡宇栄原村の金城親雲上の孝行を褒賞す。】金城親雲上は、賦性篤実にして才能人に過ぐ。直ちに南風掟に擢んでて、順に首里大屋子に陞り、両び夫地頭を授け、転じて地頭代に任ず。其の人と為りや、善く老父に事へ、寒なれば則ち之れを温め、暑なれば則ち之れを涼す。衣服飲食は父の好む所に従ひ、家事皆父の命に従ひて行ふ。啻に妻子感化するのみならず、他人も亦観感興起す。其の父享年七十八にして終る。且夫の金城の、奴僕に於けるや、己の田を分ち与へ、又銭五十貫を給して以て揺会(俗に寄合と称す)を為さしむ。未だ数年ならずして各々身を贖ふことを得たり。奴僕急有れば則ち之れを周ふ。是を以て奴僕も亦心力を尽して之れに事ふ。大宗家、極貧にして先祖を承祭するを得ざるに至り、有る所の家宝、売らざるを得ず。金城意に謂ふに、自家の祭祀、豊饒に備ふと雖も、先人の心、豈肯へて安んぜんやと。遂に銭八百貫を発して、以て之れを助く。一門亦皆其の心志に感じて、各々力量に随ひて以て之れを周く。是れに由りて宗家、其の宗祀を保つ。且村中、田地を分理し、山野を与ふるの時に値ふ毎に、必ず人工を費す。金城曾て経界を改正するの時に於て、竿入針図の法を学習し、地の肥磽を分ちて其の坪数を算し、以て登記す。故に費力の憂無し。又竿入帳を抄し、其の原名の内今時用ひざるの小名を以て、悉く筆を以て之れを記し、経界を探すの時に於て、其の記に循ひて之れを正すのみ。且稲を刈り、穀米を勘定するの時に于ても亦其の帳に循ひて之れを行ふ。此れに由りて費用減じ、郡を利すること多し。又村中取払帳は、古より未だ嘗て校清せず、其の開銷不明にして、百姓疑を懐く。金城悉く其の帳を校ベ、逐名帰款し、百姓をして逐一知悉せしむ。其の処事、是くの若く精詳なるに因り、故に凡そ村中売る所の雑物銭、毎年三百貫を存し、此れを以て村中の公用に塞て、其の余は皆村中に授けて諸用に供せしむ。且村中、素、規模帳と諸費定例帳及び締方帳・公用帳無し。金城新に其の帳を造り、然る後、諸事滞蝟ウきを得たり。又毎年、派するの貢賦を算するに、多く弁じ難き者有り。金城、名寄帳に照らして、貢賦及び私税米の数を算定し、定例出物の数に扣算して立案し規を定む。此れより以後、人力を費す無し。又宇栄原村百姓地の内、崎原地方は遠く海辺に在る有り。而して碕礒、風旱甚だ強く、五穀熟し難し。甚だ不便に属するを以て、已に癸酉の年に於て、一村の公地(俗に浮地と称す)と為し、人をして之れを受けて毎年、其の税銭三百五十貫を収む。其の税銭を将て、利を低くして、之れを村中の高利に欠債する者に借して、其の債を還さしむ。其借る所の銭、癸未年に至り、倶に各々還清すること共に一万零五百余貫有り。二千二百貫を以て仕明地を買ひ、八千貫は村中に授けて、其の利息を以て揺会を為す。丙戌の年、共収の金銭一万七千八百三十貫なり。又其の毎年納むる所の公地税銭三百五十貫を以て、徒らに村庫に貯ふるは、甚だ耗折に属す。故に揺会を為して、丁酉に至り、該に収むべきの会銭一万五千二百余貫なり。夫の金城は、惟に孝行群を超ゆるのみならず、且一郷の風俗も亦淳美と為る。郡中の諸事も亦善便と為る。厥の功小ならず。是を以て、検者・両総地頭及び田地奉行等、其の善行を以て転詳具題す。王上之れを嘉し座敷位併びに上布二疋を賜ふ。