[本文1286]【三月十日、国中より久米・慶良間島に至るまで地震ひ、海水騰涌す。宮古島及び八重山島に在りても亦地震ひ、海浪騰涌し、多く土地・人民を損す。主上、使者を遣はして祭を賜ひ、且功労有る者を褒奨す。】此の日辰刻、国中より久米及び慶良間島に至るまで、地大いに震ふ。退潮の時、屡次、海水猛騰し、尚満潮に似たり。宮古島に在りても亦辰刻地震ふ。一刻の間に大浪騰涌すること三次、或いは三丈五尺或いは二丈五尺或いは十二三丈にして、大石を岸上に揚置す。其の岸、海際より高きこと五丈許りなり。宮国・新里・砂州・友利・池間・前里の六村、伊良部島内伊良部・仲地・佐和田の三村、多良間島内仲筋・塩川の二村及び水納島共計十二村は浪に沖壊せらる。其の内、宮国・新里・砂川・友利は、房屋及び石墻・樹木・土地悉く洗蕩せらる。但各村背後の高処は、房屋罕に存す。奈んせん水納島は土地平坦にして、洪浪人家を過越し、尽く洗蕩せられて存する無し。大小の石塊・白砂堆湊して石原と為り、当今、村籍を置き難し。凡そ損する所を挙ぐるに、各村の浪に漂さるる屋一千五十四軒、浪に浸さるる屋二十五軒なり。此の時、或いは他村の人民、事有りて過ぎ来り、淹死する者有り。或いは浪を被るの村民、他村に行在し、乃ち性命を保つ者有り。或いは房壁・材木等の物に靠着して、数日漂流し、遂に岸に上りて命を存する者有り。或いは屋に覆はれて負傷し、殆ど命を危ふくするに及ぶ者有り。在番・頭目等、心を尽くして調治す。或いは其の難を趨り避けんとして、乃ち流蕩せらるる者有り。或いは浩浪の騰涌するを料らず、津辺に行きて以て船隻を護らんとして、乃ち性命を喪ふ者有り。諸役人民の溺死する者男一千一百四十九名、女一千三百九十九名共計二千五百四十八名なり。又人家の、浪に被はれざる有りて、或いは土地損壊する有り。凡そ損ずる所の田畝の賦数二石六斗四升三合六勺、圃場の賦数四百三十石八斗九升三合二勺三才、上木の穀数七石六斗六升二合五勺七才共計四百四十一石一斗九升九合四勺なり。其の土地を計るに共に一百二町九端五畝二十七歩に充つ。破船は大小七十六隻、斃馬四百三匹、斃牛二百三十八匹、損橋三座及び障潮の阿地二十九万九千四百坪、薄原六万二百坪、茅原十二万百坪、藪地二万千坪。各村の番所六軒、織布屋十六軒、藍蔵五軒、船具屋一軒、倶に漂流せらる。在番・頭目等急ぎ人民を聚め、諸役を派撥し、波浪に淹はれ、房屋に覆はれ、木石に衝かれて死する者の屍骸を収葬す。又勤番人を撥して、各海辺に赴き、凡そ屍骸の、随ひて漂来すれば随ひて収埋す。又家財を漂失して空身存命し、及び傷を受くる者有れば、所用の穀を発出して、糧食を支給し、以て賑済を為す。急ぎ飛舟を撥して来報し、恭しく御覧に呈す。主上驚懼且哀しみ、特に毛維文亀川里之子親雲上盛喜を差はし、死者に祭を賜ひ、存して托する無き者に糧を給し、以て庶民を安んず。毛維文、命を奉じ、急ぎ彼の島に赴く。主上、又八重山島は宮古島と隔たること遠からざるを念ひ、亦洪浪に洗蕩せらるること有るを恐れ、震襟安からず。即日、向允良源河親雲上朝記に命じて、以て巡察を為さしむ。且土地を損し、人民を失ふ事、至重に係るを念ひ、誠に躬の行併びに政務の宜を失するの致す所に由るを恐れ、昼夜畏れ慎しむ。四月二十四日、躬ら、国相・法司・御物奉行・申口等の官を率ゐ、崇元寺・円覚寺・天王寺に詣で、先王及び妃の神霊に拝告す。国相・法司等の官は、弁嶽・末吉・弁才天堂・識名・観音堂等の処に謁す。五月朔日、普天間に謁し、倶に国泰く民安からんことを祈る。又四月二十五日より二十七日に至るまで、僧をして円覚寺・護国寺に在りて祈念せしむ。又多良間島は、悉く稼穡を損し、飲食欠乏し、尽く儲穀を発して賑済するも、尚未だ敷くこと有らず。新穀未だ熟せざるの内、続食の穀並びに賦税の穀・村用の穀、皆難を免るるの各村をして派出せしめんことを請ふ。水納島は、房屋悉く浪に洗蕩せらる。租布を免ぜんことを請ふ。宮国・新里・砂川・友利四村は、多く居民を失ふ。而して圃場を損すること少く、受くる所の土地多きに過ぐ。長浜・前里・佐和田・国仲・仲地五村は、土地多く損し、圃場欠少す。宮国等四村の戸籍を将て、彼の本村背後の高地に移し、又長浜等五村の人民を派撥して彼の四村に配人することを請ふ。在番・頭目詳請す。此れに因りて、其の請ふ所の如く之れを允す。又八重山島に在りても亦辰刻地震ひ、忽ち東南より大波騰涌し、石垣・新川・登野城・大川・平得五村、浪に洗湯せらるること一半許りに及ぶ。真栄里・大浜・宮良・白保・伊原間・安良・桃里七村は悉く漂流せられて跡無し。土地も亦多く洗蕩せらる。黒島・新城の二島及び附近の小邑共計十九村は、多く房屋・土地を損す。凡そ漂流の房屋二千一百二十三軒、浸湿の房屋一十三軒なり。在番向成功金城親雲上朝倚并びに彼の島の員役及び人民の沈溺せらるる者男四千一百四名、内、馬艦の水手四十四名、女五千二百八十九名共計九千三百九十三名なり。又安良村の百姓、津奴なる者有り。波に漂流せられて、遠く礁外一里余に出づ。周章浮泳の間、忽ち一丈余の鯖魚有り。其の跨下に入りて揚浮す。津奴、是れ己れを救ふと知り、急ぎ之れに抱着す。鯖即ち津奴を負ひて、礁辺材木堆湊の処に到り、移登して即ち去る。此れ乃ち命を逃るるの妙なり。凡そ破船大小三十一隻、斃馬四百三十一匹、斃牛百九十五匹、桃林寺併びに権現堂・一宇嶽共計八千二百坪、其の拝殿一軒、橋三座、障潮の阿地三十七万五千坪、薄原五万七千坪、茅原六万七千坪、藪地五万坪、役座一軒、在番直所三軒、庫蔵一所、各村番所三軒及び運糧の馬艦船六隻、倶に沖壊せらる。或いは各村内、房屋を損ぜずと雖も、而も土地亦多く洗蕩せらる。損ずる所の田土の賦数共計三百七十石二升三合一勺一才、地方共計七十九町五端八畝十六歩、内、田畝の賦数九十五石四斗二升一合七勺七才、圃場の賦数二百七十四石一升二合七勺四才、上木の穀数五斗八升八合六勺なり。各役急ぎ飛船を遣撥して詳報す。向允良、前に経に命を奉じて即ちに彼の島に到る。存命して靠る無き者に至りては、即ち公穀を発して賑給す。又祭台を本蔵地に設けて、祭品を備弁し、桃林寺住持の僧をして弔祭せしむ。又、向允良の筆者をして、在番金城親雲上の墳墓併びに頭目両員及び大阿母等の霊前に到りて、以て弔祭を為さしむ。又溺死者の各処に埋葬するを見るに、沙場にして長置に便ならず。今、便宜の地を択びて、以て遷葬せんとすれども、奈んせん死して日尚未だ遠からず、以て遷葬し難し。着令して石を建て記と為し時を侯ちて改葬せしむ。向允良、国に回り、其の事を報明す。又房屋・土地尽く浪に洗蕩せられ、各村、地を択び村を建て、各処の人民を配居せんことを請ふ。其の内、安良村は、今戸籍を建てんとするも、奈んせん湊来の人民、俄かに安居し難し。然れども津口の在る有り。若し村を建てて看守せざれば、誠に難船を救ふを得ざるを恐る。平久保村人民を将て、補ひて本村籍中に編入し、小村を設建して、以て平久保村管轄と為さんことを請ふ。又富崎地方も亦便宜の津口有り。竹富村居民を将て、其の地に配入して新に村籍を開き、名づけて富崎と称し、安良村員役をして、事務を弁理せしめ、其の総管役は、旧に仍りて宇良と称せんことを請ふ。又桃林寺及び神社も亦旧貫に仍りて建置し、税米租布の流失の数、悉く恤免を賜はらんことを請ふ。又正丁人口の沈溺者は、明年より夫賃米を免納するを請ふ。各役、由を備へて詳請す。此れに因りて亦其の請ふ所を允す。又大浪初めて退くの時、衆皆大浪再び作ること有るを恐れて、慌張逃走し、並に救溺収屍の心無し。惟、大川与人大浜筑登之有り。漂没の中を免れ出で、衆人此くの如きを看見するや、即便に各村の難を免るる者を叫び聚め、其れをして諸木・家材に打傷されて半死する者を救助せしむ。且、名蔵村の税米を搬運して、石垣等の四村に支給し、以て饑餓を救ふ。又淹穀を撈出して、煮て粥飯を造り、以て人を救ふ者に給して、之れを吃せしむ。又未だ在番金城親雲上の跡影を知らず。遍く海辺を探して、其の屍を収葬す。此の時、在番筆者并びに頭目等は、公務有りて離島に在り。即ち其の事を報知し、并びに離島の諸役・人夫を召して前み来る。次日、筆者・頭目等回り来るや、各人に吩嘱し、諸事を照管せしむるの間、諸役・人夫、小舟数十隻に坐駕して未到し、其れをして分発して受傷者を調治せしめ、且沈溺者を収葬せしむ。又大浜の妻、石垣に覆はれ傷つきて死し、弟及び児、倶に溺死し、母親は屋に覆はれて傷つき、已に半死に及ぶ。同妹及び子は調治するも、奈んせん其の験無く、七日に至りて死す。大浜大変に逢ひて、正に歎惻の中に在りて、能く心力を尽くして母親を療治し、兼ねて人命を救ふ。此れに因りて、新在番及び各役、其の事を報明す。朝廷、彼の大浜、大変の間、諸凡の事務を照管するに因り、壬辰の年、階越して、勢頭座敷位を褒叙し、綿子二把を賜ふ。又在番筆者容以善真栄田筑登之親雲上義博は、二男容良竜真栄田子義篤の溺死に遭ふ。頭目大浜親雲上は、児孫、浪に流蕩せられ、妻、屋に覆はれて傷つき、七日に至りて故するに遭ふ。上原与人は、父親并びに妻子・孫の、浪に漂流せらるるに遭ひ、皆哀痛して日を度る。奈んせん諸員役、急事を料理するの心無く、乃ち已むを得ずして出でて各役を励勧し、昼夜遍く各村を巡りて、溺死者の屍骸を拾収す。且諸凡の賦税田圃併びに流失物件を査定し、急ぎ飛船を遣はして詳報す。又稼穡・品物の、浪に洗蕩せらるるを見、深く糧食継ぎ難きを恐る。即ち蕃薯等の物を植ゑしめ、且心力を尽くして諸事を照管す。向允良、其の事を報明す。此れに因りて、壬辰の年、其の功を褒奨し、上布各三疋を賜ふ。