[本文1293]【二十一年、疫気大いに行はる。庶人を賑ひ併せて喪服を省免するを諭す。】是の歳正月の間、高嶺県与座村に、疫気始めて発し、漸く世上に行はれ、死者甚だ多し。若し夫れ医生、喪に遭ひて制を守らば、療治を妨げん。只其の父子・兄弟の喪に服するを准し、余服の如きは尽く免ず。官職有る者も亦多く疫に染み、且喪に居りて公務を缺欠す。二十五日の喪は、日を以て月に易ふるの制に照して之れに服す。二十日の喪は、惟五日を服し、十日以下の喪は殯葬の日のみ之れに服す。又観音堂併びに赤田御待所及び金城大樋川・儀保御待所に于て、公項を動用して、品物を備弁し、禅家の僧をして祈イせしむ。又主上、人の賑はずして餓死を致す者有るを軫念し、倉廩を発して以て周く済ふべきを着す。是に首里より以て田舎に至るまで、各々主取を設け、野外z居の者に至るまで、遍く巡察を為す。或いは日営以て食を為す人にして、闔家、疫に臥し、拮据する能はず、亦人の賑救する無き者有り。首里・泊・那覇・久米村は御貯米を発して之れを済ひ、諸県も各々貯米を発して之れを済ふ。其の或いは財産有るの人にして、全家、疫を患ひ、飯を烹ること能はず。亦人の照顧する無き者に至りては、則ち其の与中及び親族をして、以て之れを照顧せしむ。然りと雖も相周ふを得ず、以て死を致す者有り。五月に及ぶころ、疫癘漸く止む。国中より伊江島に至るまで、死者共計四千五百六十余人なり。