[本文1320]【二十六年二月二十一日、宮古島下地仁屋、造船の法を精習し、以て島人に教ふるを褒奨す。】宮古鳥嘗て山林無く、用ふる所の舟揖は、八重山に往きて乃ち造作することを得たり。頃年に至り、杣山暢茂し、今に至りては、本島に在りて以て修造するを得べし。然り而して未だ其の法を精知せず。材木を取るの時、多く人夫を費し、又材木多く無用に損す。西里目差下地仁屋は、曾て経に造船の法を学習す。乾隆三十九年に、船隻格図併びに丈尺各式格帳簿を写出す。是れに由りて、初めて其の式を用ふ。且造船に逢ふ毎に、因りて下地仁屋をして、本職を兼ねて料理を為さしむ。此れよりして後、諸般の費有ること無く、本島を利益して、其の習ふ所の効を顕はす。此れに因りて、在番・頭目等、由を備へて詳報す。故に白棉布二端を賞賜す。