[本文1328]【十一月二十三日、前任久米在番毛九彩の闢溝築堤の功を褒奨す。】久米島仲里県慶味原より以て宇江城・比屋定・阿嘉三村に至る路辺地方に、十四石余を収得するの田有り。近年に至り、淤泥流入し、耕種するを得ず。百姓其の憂に堪へず。乾隆三十六年、在番毛九彩佐渡山里之子親雲上安元、彼の島の各役に教示し、農隙有るを見て浮溝を設備す。其の基脚は、一歩半より二歩に至り、高さは五尺より六尺に至り、長さは九十余歩なり。其の泥水を以て、引きて村後の兼久圃二万五千余坪の処に流入せしむ。其の圃、方て膏肥なるを得たり。其の田も亦旧に仍りて稲種を播くの処と為る。又浜崎兼久及び前兼久地方五万余坪の処に流入せしめて、漸次、地肥ゆ。又阿嘉村は多く天水田有り、小旱の時も亦水竭き、以て耕耨し難し。乾隆三十五年、宇座原に于て塘井を設備すること長さ二十四歩・広さ七歩・高さ八尺にして、其の塘口より、水道を掘疏すること三十余歩なり。此れに因り、米穀一百七石余を取得するの田、其の水多きを保つを得て、本県の利と為る。是を以て、後任在番・各頭目、由を備へて詳報す。随ひて毛九彩に上布二疋を賞し、彼の島の諸役も亦各々位を擢んづ。