[本文1362]【三月二十八日、渡名喜島の宮平仁屋の善行を褒奨す。】渡名喜島東面に有る所の津口窄狭にして、舟揖往還の時、多く衝擱して以て危難に及ぶこと有り。其の島の宮平仁也、慮を発し、一人の力を以て、石を築き壇を作ること高さ一丈三尺・横二間なり。樹木を栽植して以て津口を看定するの記と為す。此れより日夜、諸船容易に在来す。又其の島の蚕子、都て是れ死す。宮平、亀桃原と同に、伊平屋島に往き、蚕゙を求めて来り、島中に分与す。此れより漸次繁息す。又読谷山郡に往き、無鬚の小麦を購ひ来りて播種を為すに、已に土性に宜しく、平素の麦に較べて、熟すること早く、獲ること多し。此れに因りて、島中に分与して播種せしめ、共に利益を得たり。又宮平の岳母、年已に七十余。上届戌年に、一男を喪ひ、亥年に至り、其の女、宮平の妻も亦世を辞す。奈んせん老邁にして頼るべきの人無し。宮平移し来り、奉養して孝を尽くす。夫れ宮平、永く島中の利を為し、又岳母に孝養す。人皆感悦す。又曾て烟台司を勤むるの功あり。此れに因りて、酋長及び在番・地頭等の職、朝廷に報明す。随ひて筑登之座敷位を奨す。