[本文1383]【伊平屋島田名村の池田筑登之の善行を褒賞す。】伊平屋島田名村の池田筑登之は、赤子の時より、池田筑登之夫婦の撫養を承けて、以て成人と為る。但其の養父、素より、家貧乏にして、身を他家に売りて子を養ふ。池田、十五六歳より、営労して財を求め、十八歳に至り養父を贖ひ来る。養父、位無く、甚だ是れ愁ひ痛む。養父に勧めて、耕作当役に任じ、己も亦父に随ひて同に教令を加ふ。故に田名村は、他村と異なり、日食饒豊す。其の功労を将て筑登之座敷位を賞賜さる。此れ、原来の願を遂ぐるなり。且本村に大堀有りて、寒気甚だ強し。老叟者に至りては、火を゚して漸く防ぐ。是を以て被襖を購買して、養父母に奉供す。此れより寒気の憂無し。又日食に至りては、或いは漁して以て魚を供し、或いは豚を畜ひて以て肉を供す。且養父母在すの時、塚墓を設造して以て其の心を安んず。養父年七十九にして死し、養母は年六十八にして死す。又本生の兄、既に病身と為り、日食営み難し。是を以て、毎年賦米并びに諸出銭・日用の食需、不足の時は、資を発して之れを補ふ。且養母の兄、貧にして且病を帯び、更に生む所の一男、身を他家に売り、渡るべきの人無し。是を以て三十余年、叮嚀に之れを養ふ。其の一男、身を贖ふの時、其れをして修養せしむ。臨終の時も亦托頼有り。則ち池田の墓に葬る。其の祭祀に至りても亦資を出して補足す。又耕作当役を勤めて、既に数年に及ぶも、病症に染むるに因り、其の職を辞すと難も、能く農業に老い、之れを村人に教ふ。故に上届戌亥両年饑饉の時も、唯、田名村のみ穀有りて食用し、拝借の米も亦他村に譲給して、其の饑餓を防がしむ。此れ、池田、料理の致す所なり。且、比佐志原に五端余の田地有り。皆天水田にして、旱魃の時、稲禾登らず、百姓憂苦す。池田、意見を起して、村人と商議し、田名小堀の尾、渡口の処より水溝を開疏すること長さ百五十歩・横二尺・高さ一尺五寸なり。此れより其の田膏肥にして、今播苗の田と為る。且、知那古は、道路狭窄にして、石多く、行くこと難し。兼ぬるに毒蛇多し。池田、慮を発し、草木を伐除して、其の路を開広す。又夜中、与論島船隻有りて、逆風に遇着し、須武久和外礁に走せ上り、通船八人、将に溺死に及ばんとす。池田、村人に急告し、身、先づ駛せて小舟を出し、其の難を救助す。村人も亦皆来る。此れに因りて、其の舟及び貨物等の件、倶に失落無く、以て救助するを得たり。此くの如く孝心甚だ厚く、平日の行に至りても亦正しく、且村人と交はるに和睦を以てし、多く村中の利を為す。此れに依りて、通村の百姓及び頭目・掌管役等、由を備へて朝廷に報明す。随ひて、黄八巻位を賞賜す。