[本文1435]【四十三年甲寅の間、渡名喜島牛宮平、屡々人命を拯ふの功を褒賞す。】渡名喜島牛宮平、本島宮平筑登之、素より眼病に染み、惟だ父子のみ相居するに、偶々其の子、出で去きて魚を捕る。夜、火災に逢ひて、東西を弁ずる無し。焼死を免れ難き有るを見る。時に牛宮平、趨せ来りて之れを救はんとするも、火、戸口に至りて、内に進むこと能はず。即ち後壁を毀ち、扶持して外に出で、以て命を全うせしむ。矧んや彼の宮平筑登之は、従来、家貧にして、衣服・器具、数を尽くして焼失するをや。牛宮平深く惻怛を為し、銅銭二百貫文・夏冬の旧衣二領・粟麦二斗を給与して、以て助補を致す。又本島人三名有り、共に小舟に駕し、洋に在りて魚を捕る。夜中乍ち狂風猛瀾に遇ひ、将に本籍に回らんとして、波に覆沈せらる。其の二人は去向を知らず。一人は帆を抱き波に随ひて漂流し、多く海水を呑みて、勢必ず死に至らんとす。幸に、牛宮平、魚を捕りて旋帰の時、哭号の声を聞き得て、自己の危きを顧みず、同伴と相議して、援けて其の舟に載す。此の時、其の人、人事を顧みず、言語も亦絶ゆ。想ふに必ずや同伴有らん、将に附近の海辺を探さんとするも、奈んせん、夜暗くして探ること能はず。已に回棹して番所に到り、療治して活命せしむ。又上届の年、札改の時、牛宮平に着令して、酋長に随ひ、那覇に直班せしむ。数月に至るも工銭を領せず。況んや、又性質老実にして、親族より以て村人に至るまで、相交はりて和睦するをや。挙島の百姓・頭目詳報し、酋長・在番・地頭印結を加具して、以て朝廷に禀す。又彼の牛宮平は、往昔、久米仲里郡の船隻、鏡瀬に在りて破壊の時、大嶺村人と同に小舟に駕し、駛せ出でて之れを拯ひ、曾て已に褒書を賜ふこと有り。今に迄るまで三次、人命を済活す。実に類を出づるの功に属す。故に赤八巻位を褒賜す。