[本文1571]【十一年甲戌、勝連郡比嘉村の前の浜親雲上等の功労を褒奨して各爵位を賜ふ。】勝連郡南風原村は、強半天水田なるに因り、小旱に逢ふと雖も貢米敷かず、闔村の百姓必ず窮苦に至る。是れに由りて田地官に詳請し、上届卯年より以て巳年に至るまで、比嘉村の前の浜親雲上・南風原村の山城筑登之・同村耕作当金城仁屋・浜崎村の武太金城其の外十六人、之れが統主と為り、只百姓遑居の時を候ひ、赤富地原に於て、堤井長さ三間余・濶さ二間・深さ五尺を鑿開し、又其の北方に土山有るに因り、長さ三十間余・横五間・高さ三間ばかり地土を除去し、以て水道を疏す。且宇炭原に於ても、亦堤井長さ十一間・濶さ八間余・深さ二間ばかりを鑿開す。水深は八尺なり。又此の井より承溝長さ二百間余・濶さ三四尺ばかりを疏鑿す。且上年に至りても、亦三塘を鑿つ。其の内の一塘は長さ十五間・濶さ二間・深さ五尺、一塘は長さ八間・濶さ二間・深さ一丈、一塘は長さ五間・濶さ三間・深さ三尺余なり。此くの如く各々心力を尽くすの故に、米穀百三十三石三斗余の水田永く水を乾さず。其の水、与那城郡二十石の水田に注入す。且上届巳年に于て、地畝二千七百四坪を新に水田に鑿し、其の獲る所の米穀共計三石三斗五升四合、原租に扣算すれば、則ち二石五斗既に出産を増す。此れ永世の利益と為る等の由、酋長僉呈し、検者・両惣地頭並びに与那城郡酋長・検者・田地奉行印結を加具して前み来る。随即各々爵位を賜ふ。