[本文1575]【十二年乙亥、渡名喜島の地頭代南風原親雲上の善行を褒賞す。】渡名喜島の地頭代南風原親雲上は孝心甚だ厚し。父母在す時は、毎日の飲食、其の欲する所に従ひて供奉を為し、夏冬の衣服も亦優供を為し、身、外に出づる時は、必ず其の行く所を告ぐ。又父母の身体の安を欠くを見れば、則ち日と無く夜と無く心を尽くして調治す。且其の母痰病に染患するに因り、即ち薬材を貯へ、母をして時に常に服薬せしめ、能く保養の道を尽くす。父は年七十余三、母は年八十余一に至るまで、善く孝養を尽くす。故に家僕等も亦其の孝に感じ、凡事心を留めて勤労す。該南風原従りて各々心を用ふ。而して其の身価銭に於ても、或いは一半之れを痰オ、或いは一概に之れを見ず。更に家僕一人、其の養父母の、年老ひ身衰へ且貧窮に苦しむに因り、故に其の身価を免ずるの外、更に妻を娶るを許し、其の父母をして心を安んぜしむ。又該島は凡物欠匱し、人病を患ふの時、以て調治し難し。該南風原、預め薬材を貯ヘ、随ひて痛めば随ひて治す。且灸法及び毒蛇の害を治すの法は、倶に已に諳熟し、島中に益す。又上届午年、痲疹流行し、闔島の百姓五十七歳以下の許多の人数、共に痲疹に染む。此の時、エム欠乏し、正に手を束ねて斃を待つの間に在り。幸に該南風原、自己の大米を発出し、各人に分給す。更に久米島に航して大米を買運し、既に困窮者に之れを借し、更に極貧者に之れを給す。但に此れのみならず、兇瘡に染む者に至りては、薬材を発給し、告ぐるに調治の法を以てす。又疹後痢に染みて日食敷かざる者に於ては、即ち大米を発借す。且本宗の又従兄弟、既に困窮に坐し、諸凡の貢賦を欠し、男子を鬻売すと聞き、乃ち銅銭を給して欠項を全償せしめ、其の男子を将て家に移養し、配を選びて妻を娶らせ、且家宅・蘇鉄籍等を給し、其れをして父を養はしむ。其の後に至りても亦典する所の地畝を贖はしむ。又表従伯母は家貧しく身老ひて病症に染む。故に家に移養す。又親戚の内に貧難者有るを見れば、屡次物件を賑給し、更に兼ぬるに財物を発借して以て日食を続がしむ。但に此れのみならず、染病・送葬・祭祀等の日に当りても、亦米銭を助給す。又該島出砂地方に、素神殿有りて其の丁モを極む。該南風原、大掟役に任ずるの時、自ら資財を捐して以て改造を為す。且在番公署併びに牌屋は、年を歴ること久遠にして、将に倒覆に及ばんとす。該南風原、自己の材木・銅銭を将て島中に発借し、其の償還の需は、島中の人をして力を樹畜に尽くさしめ、其の所出を将て逐漸収領す。故に百姓等u残に及ばず。且該島産する所の綿子は料低く、真価は米に折して二斗一舛四合四勺に扣抵す。該南風原、久米島に到りて製綿の法を習ひ、島中の人に伝へ教ふ。故に二十年を歴るの辰年以来、産する所の綿子、久米島の如く二斗五舛に扣抵し、甚だ島中を益す等の由、百姓・頭目僉呈し、酋長・下知役・在番・地頭・田地奉行印結を加具して前み来る。随ひて越階して座敷に陞せ、併びに上布三疋を賜ふ。