[本文1585]【本年七月二十五日、rqル国船二隻の本国に漂来する有り。】此の日、rqル国船二隻、本国泊村洋面に漂来して投ロ寄泊す。其の大船は、長さ三十六尋・横七尋・高さ六尋三尺、其の小船は、長さ二十三尋・横五尋一尺・高さ四尋四尺許りなり。両船の人数共計四百七十人(内女一名・黒人国人十一名・中国人一名有り)。随即法司より以て諸役人等に至るまで泊村に直居す。該両船上多く兵器(大砲・鉄砲・鎗刀有り)を載す。且兵役をして杉板に坐駕して各処の海浜を巡往し、水の浅深を試せしむ。是れに由りて法司等の官甚だ驚疑を為し、即ち其の附近の海浜及び那覇・泊・久米村等の処に于て、各関を設けて防守せしむ。菜肴及び各色の物件に至りては、随ひて求むれば随ひて給す。゚想も該船水師大人、官員に見ゆるを請ふ。是れに因りて各官意謂へらく、若し官員を遣はして相見すれば、則ち其の志見るべしと。乃ち毛廷器(普久嶺親方)に着して権りに官員と称し、猪羊並びに各色の菜蔬を備へ帯び、親ら大船に登りて相見せしむ。水師又船隻を修葺し並びに檣木一根を賜ふを請ふ。随ひて其の請を准す。翌日水師礼物を備へ帯び、親しく臨海寺に来りて鳴謝す。其の船たるや、貨を搬びて修理せざるべからず。故に其の貨物をして搬びて聖視寺に在らしむ。更に令して各処の津口に于て亦関を加設せしむ。又該小船、両次泊洋面に在りて帆を揚げて開洋し、或いは各浦に巡往して収泊し、或いは各洋面に収入して投ロし、旧に仍りて泊洋面に回り来りて下ロ寄泊す。該人数の内、一名病故す。随ひて地を聖視寺前面の松林に択び、埋葬祭吊せしむ。該水師、此の厚恩に感激し、親しく国王に見えて叩謝するを請ふ。即ち辞して云ふ、本国の法度、或いは他国船隻の漂来する有れば、則ち有る所の一切の事宜は、専ら府官に由りて承弁す。而して其の謝恩も、亦府官代りて奏謝を為す。且現に呈上の諭旨を奉ず。内に云はく、琉球国王は天朝冊使を除くの外、別に肯へて他国人に見ゆる勿れと。又規例を査するに、本国は古来中華官員の漂来有りと雖も、只府官に見えて謝礼するのみ。爾等も亦宜しく其の例に依遵施行して可なるべしと。水師又云ふ、若し国王に見えて親しく謝せずして回れば、則ち以て我が王に見えて回奏し難し。万乞ふ、国王に見ゆるを准せと。復又辞して云ふ、凡そ国家の法は各同じからざる有り。琉球国法、如何にして以て此くの如く挙行すべけんや。茲に其の由を陳べ印照を交給せん。爾等宜しく其の印照を以て国王に奏明すべし等語と。再三頻りに辞すと雖も固く執りて諾せず。遂に水師倦Rとして悦ばずして曰く、黷オ今国王に見ゆるを准さざれば、則ち我已むを得ず回国の後、又応に其の礼を謝す為に再び船数隻を遣はすべしと。是れ其の悪心の機見えて国家の災起ること知り難き者なり。因りて首里の各処に于ても、亦関を設けて防守せしめ、王、王子以下按司及び紫巾官等に命じて会議せしむ。皆謂ふ、若し一人を遣はし、権りに府官と称して再び水師に見え、頻りに辞せしむれば、則ち其の国王に見えんと欲するの願を止むべしと。王、乃ち向鴻基(今帰仁按司朝英、仮りに向邦輝と名づく)に命じ、権りに府官と称して各色の物件を帯領し、船に登りて告辞せしむ。水師云ふ、若し王に見えて親しく謝するを准さざれば、請ふ、其の由を具して印照を交給せよと。随ひて其の由を具して印照を交給せしむ。翌日、水師礼物を備帯して臨海寺に来到し、叩謝して云ふ、我等数日淹留して貴国を煩擾し、感何をか言ふべけんやと。乃ち九月初七日に于て該両船一同に帰国して去る。給する所の印照左に記す。】琉球国布政大夫向邦輝、印照の事の為に、嘉慶二十一年煙雌十五日、rqル国貢船二隻の弊国に収到する有り。本職、意、厚く待せんと欲するも、奈んせんo爾たる蜃疆、産物の珍無く、僅かに淡薄の物件を送り、慚愧に勝へず。捌月初弐日に于て那覇地方官を遣はし、上船問安せしむ。水師大人、国王に見えて鳴謝せんと欲す。随ひて規例を査するに、或いは他国船隻弊国に来到する有れば、本職、承弁して回らしめ、並びに王に見えて親しく謝すること無し。故に玖月初三日に于て親しく宝船に登り、再三辞を請ふ。茲に拠る有るを欲し、左に国印をして照と為す。嘉慶弐拾壱年玖月初五日