[本文1751]【三年丁酉、首里に新に文廟を建つ。】先王尚温、学は孔壁を宗とし、徳は湯盤に浴し、曾て已に諭して国学を立て、聖道を崇び人才を育む。又文廟を設建せんと欲し、既に地を国学の左翼にトし、繚らすに周垣を以てし、築くに礪石を以てし、以て経営の基址と為す。時に国財裕かならざるに因り、遂に数十年を寛くして、未だ廟宅を建てず。今我が賢王、儒を崇び道を重んじ、特に国相・法司に諭して曰く、朕、先志を継ぐを思ひ文廟を建てて永く尼山の儀容を仰がん。卿等確議して奏覆せよと。国相・法司、其の工料祭料の由りて出づる所を以て、細さに商議を加へ、奏して曰く、請ふ、命に遵ひ廟を建てんと。賢王大いに喜びて諭を発し、興作の辰を諏ばしむ。春三月に工を興し、秋九月に迄りて成を告ぐ。即ち至聖先師の神主を将て正中に奉じ、顔子・曾子・子思子・孟子の神主を将て左右に配す。毎年春秋の上丁、賢王親しく文廟に詣り、祭るに大牢を以てす。又啓聖祠を国学彜倫堂中に設け、啓聖王叔梁公の神位を奉安し、配するに顔氏・曾氏・孔氏・孟孫氏の神主を以てす。毎年春秋の上丁、官を遣はし、祭るに小牢を以てす。戯於我が王の功徳、前を継ぎ後を裕かにして、聖人の教化地として届らざるは無し。