[本文1882]【本年、伊平屋島の地頭代名嘉親雲上、仲田村の伊礼筑登之・我喜屋筑登之の功労を褒嘉して以て爵位を賜ふ。】伊平屋島仲田村は、原来困疲を為すに因り、担に人民・牛馬の減少するのみならず、農器に至りても亦用を敷かず。該百姓人等、其の受地を耕するに実に力の及ぶ所に非ず。内六人の受くる所の地を将て、経に諸見村に派授して以て代弁を為すと雖も、然も余す所の地畝に至りても、亦尽くは耕する能はず、多く抛棄を致す。是を以て百姓人等其の貧苦を極め、日食続ぎ難し。而して欠く所の貢米は共計一百三十石有奇、負ふ所の私債も亦許多に及ぶ。百姓都べて志気を墜し、農桑の諸務既に怠慢を致し、民風土俗又頽敗に就く。幸に地頭代名嘉曁び本村伊礼・我喜屋、下知人に任ずる有り。任に臨みて以来、諸凡の事務は、議を指揮司曁び検者に候ひ、細さに百姓人等に諭し、旧俗を改めて善美に就かしむ。且多く農器を備へ、百姓に授給し、以て凡百の稼穡をして農時を違はざらしむ。時に厥の後より日食足裕して、有る所の貢賦、額に照して完納す。又克く百姓をして抛荒の水田六千七百二十二坪を闢墾し、典する所の田畝共に六千七百七十四坪許りを贖回せしむ。其の獲る所を合算するに、折米して已に一百零五石余に及ぶ。又山林を埋めて材木を鬻ぎ、銅銭五千貫余文を殖獲す。其の獲る所を撮合して以て欠く所の貢賦を納清し、又以て身を鬻ぐの人民、男女共に三十余名を贖ひ回し、又以て牛馬共に一十五疋を買ひ備ヘ、又以て借る所の米銭を還清して、以て益を島中に貽し、又以て人家一十六軒を増造す。百姓受地の分数も亦自ら軽少に就き、漸く富饒を致す。此れに因りて前日諸見村に授くる所の地畝を贖ひ回し、旧に仍りて自ら耕し、有る所の貢米も、毎年額に照して納清す。又、本郡杣山の内、漢儀名山・面名山曁び通水山に唐竹籍有り、共に憔悴に及ぶ。該嘉等、心を加へ廬を尽くして、其の培養を加へ其の守護を善くす。啻に今日暢茂を致すのみならず、抑も且逐年増植す。又、村人に勧めて広く蚕子を畜はしめ、綿子四十余把を獲て以て賦税に塾す。又、云ふ所の屋那覇離島に九百余坪の地畝有り。多年抛荒して未だ耕耘するを得ず。該嘉等、村中の群民を撥し、其の地を墾開して以て稼圃を作らしむ。又、該屋那覇島に、原、井一口有り。泉水弱小にして日用を敷かず。一たび小旱に逢へば、遠く内地に頼りて聊か汎用を為し、儘く不便有り。該嘉等、百姓に着令して塘一口を開かしめ、以て汲水の便と為す。又伊是名村の東野に、天水田の稲苗田有り。専ら天沢に頼りて以て耕種を為し、僅小の旱魃に逢ふと雖も、其の水涸れ易く、播種に便ならず。該嘉等、飭して村中の群民を出し、山田原東辺の堤井に在りて、畦を築かしむるもの横三丈五尺・高さ一丈なり。且其の地上の池に於て、畦を築くもの横三丈・高さ五尺。且其の地の西辺の池に於て、畦を築くもの横二丈五尺・高さ七尺五寸なり。各堤池を量るに、其の長さ七丈五尺より以て十五丈に至る者有り。時に厥の後より、田に水道の通ずる有り。八千八百余坪の田を将て永く水田を成し、毎年稲を栽え種を播くに、天沢に頼らず、永く利を村中に貽す。挙村人等念謂ふ、該嘉等、此くの如く指揮すれば日後必ず疲を変じて興に就くこと有らんと。共に感服を致す。是に于て該村頭目・百姓等、褒賞を酌賜するを乞ひて呈称し、取納奉行・高奉行・大美御殿大親・署総司・指揮司・検者・酋長等、印結を加具して朝廷に禀明する有り。法司王に奏し、其の功を褒嘉し、名嘉を賞して座敷位を賜ひ、伊礼・我喜屋両人を賞して各黄冠を賜ひ、以て盛典を昭にす。