[本文1934]【本年、泊村曁び北谷郡砂辺村・西原郡棚原村に大疫あり。】此の年十月よりして来、該三村、熱病流行して人多く身故す。十二月に至り、各村の呈請を恩准し、医を遣はして調治せしむるも、奈んせん疫気未だ滅せず、漸く国中・諸島に及ぶ。而して翌年正月に至り、疫気益々熾なり。即ち僧侶に飭して、観音堂・赤田御待所・金城大樋川・儀保御待所・宗之崎等の処に在りて、祭奠を挙行し其の疫をイせしめ、更に各衢に於てもイを行ふ。且禅家の僧侶自ら祭品を供へ疫氛を除くをイるも、尚未だ消せず、世上の死者屈指に勝へず。官役等、或いは疫に染む有り、或いは喪に服する有りて、妨を公務に致す。是を以て朝廷檄を国中に行ひ、喪服の日数を減省す。期服は制に遵ふも、月に易へて十三日を受け、大功は五日を受け、小功以下は只死を送るの一日を受く。又首里・泊・那覇・唐栄及び附近郷下の廬居人民の家貧にして療治を妨ぐるを致す者に於ては、飭して倉米を発し、或いは之れを恤給し、或いは価を賤くして之れを売り、或いは価を寛くして之れを売る。此の時、官家・富家も亦銭米を分給して、以て調治に便す。又倉米を発して諸郡貧民に恤給し、更に諸郡に飭して貯米を発出して以て急迫を救はしむ。六月の間に至り、疫氛漸く消ゆ。飭して、喪服を将て制に照して遵行せしむ。凡そ内地より伊江・伊平屋・粟国・渡名喜・慶良間等の島に至るまで、其の疫を患ひて身故する者共計八千二百二十四名なり。