[本文1969]【本年、与那城郡前任地頭代屋慶名村名嘉村親雲上・宮城村掟当山仁屋曁び人民十九名を褒嘉して皆爵位を賜ふ。】与那城郡宮城村は、水田素より少く、其の田多く天沢に頼りて以て耕耘を為す。小旱に逢ふと雖も、水涸に就き易く、稼穡登らずして貢賦を欠し、百姓人等共に困窮に及ぶ。嘗て岸本・池味の両原を見るに、泉の湧出する有り。意謂へらく、若し此の地に于て水道を決開すれば、則ち旱魃に逢ふと雖も、水の涸るるを愁へず、新田を開くと雖も、亦水欠くること無からんと。奈んせん村民困疲し、其の水道を開くの費を備ふること能はず。時に前任地頭代名嘉村・宮城掟当山等有り、村民十九名を率同し、各資斧を捐し、岸本原地勢流下の処に在りて、水源を探求し石を築きて水を留む。其の高さ二丈二尺。既にして堤井を鑿開するもの長さ五間七合・横二間八合・高さ四尺五寸。又溝洫を決排するもの長さ五百七十八間二合・高さ六尺八寸七分。其の水を導疏す。且其の溝洫に石矼両座を築架す。又池味原に在りて泉井を鑿開するもの長さ一間三合五勺・横四合五勺・高さ二尺。即ち其の下流に於て、堤井二を掘開す。其の一は長さ十二間三合・横四間・高さ五尺、其の一は長さ五間五合・横三間八合・高さ五尺なり。且溝洫を決排するもの長さ九十三間・高さ三尺。又新田を掘開するもの四千百二十六坪余、村民其の水を注入して以て耕種を為し、其の産米は計九十斛起の多きに及ぶ。蒔く所の禾苗も、亦時に随ひて発生し、甚だ利益を貽す。是れに由りて朝廷、皆爵位を賜ひて以て褒典を示す。