[本文1986]【本年、八重山島与那国村の登野城を褒嘉して爵位を賞賜す。】八重山島与那国村の福見田原・南風福見田原の両処は、素、産米九千束の田有り、多く天沢に頼りて以て耕耘を為す。一たび旱魃に逢へば、水乾涸に就き、時に随ひて耕種するを得ず。先年、本村登野城仁屋の父親加那鳩間有り、大米二石五斗五升起・活豚二口・焼酒一百二十沸を動発して許多の人夫をレ募し、唐家古川の中途に在りて、畦を築くもの長さ九尋四尺・横五尋・高さ五尺より以て七尺に至る。将に田中に向ひて水道を決排せんとするの時、不幸にも身故し、成を告ぐる能はず。上届亥年、幸に其の子登野城有りて、先父の志を継述し、大米一石五斗起・活豚二口・焼酒一百二十七沸を動発し、人夫をレ励して、該畦より水田に至るまで、水道長さ四百四十二尋三尺を決疏し、去年に至りて、方めて其の成を告ぐ。時に厥の後より旱魃に逢ふと雖も、田水常に満ち、耕種の時を失はず。又去年、米粟登らず村民都べて其の種を欠き、播蒔するを得ざるに至るのとき、該城、稲粟九斗三升先を発給し、時に随ひて播種し、甚だ村中の利と為る。伏して乞ふ、褒賞を酌賜せよ等の由、百姓人等僉呈し、在番・頭目・胥役等印結を加具して朝廷に禀明す。是れに由りて筑登之座敷位を賞賜して以て褒典を示す。