[本文1990]【九年丙辰正月十五日、西洋船一隻の那覇洋面に到来する有り。此の日、西洋船一隻有りて、那覇洋面に到りて停泊す。即ち通事を遣はして其の来歴を問はしむ。称に拠れば、亜米理幹国商船に係り、通船の人数共に十名(内一人は婦女、一人は二三歳の女子)、曾て金山に在りて開船し、已に百余日を歴、糧食を求めんとして貴国に来到す。乞ふ、洋銀五千円許りの価を估計して、米豆を発売するを准せ等語と。即ち小国、穀産裕ならずして調弁すること能はざるを以て、之れを辞す。続いで柑子・草花・蔬菜等の種を請求する有り。即ち酌察して之れを給す。該亜人、送るに小洋銀一円を以てし、本日開船して帰り去る(原、是れ正月十三日、亜船、兼城郡洋面を駛過す。時に亜人三名、脚船に坐駕して、糸満村の浜辺に盪来して上岸す。村人之れを見、浜に往きて検束す。該亜人、勒ひて村人一名を脚船に載せ、本船に率回す。十五日に至り、該船、那覇洋面に収到して停泊す。即ち該一名引導船に駕して回り来る。訪ぬるに、該一名の口称に拠れば、亜人等吾をして引駕して那覇洋面に前み到らしめんとするも、但々言語通ぜず、以て引導し難し。其の日食に至りては、毎日番薯・イ餅を給与し、併びに烟草を給す等語と)。】