[本文2048]【本年、武世英渡名喜親方宗珍等を遣はし、羽地郡に赴き水を決して田を開かしむ。】羽地郡伊差川・我部祖河の両村の境内に、湿地七万二千五十七余坪有り。其の内、三万五千余坪は経に田を開きて耕種すると雖も、而も出産幾ばくも無し。朝廷、密かに総地頭をして地勢を巡察せしむ。称に拠れば、若し水道を決開し瀦水を注流すれば、則ち応に田畝と為すべし等由と。隨ひて両総地頭と相議し、武世英渡名喜親方宗珍に着令して其の董理を為さしむ。又武徳潤渡名喜里之子親雲上宗有・向昌辰大宜見里之子親雲上朝睦・麻為錦西原親雲上真起をして之れが奉行と為し、係三人・筆者三人を率同して該郡に前み赴き、水道を決鑿せしむ。其の長さ一千八百二十八間・其わ濶さ或いは二間或いは四尺・其の深さ或いは九尺或いは三尺。時に厥の後より瀦水流去し、水田一千二百六十二坪を開き成し、旱田三万五千六百八十二坪を開き成す。且曾て田畝を開くの処も、亦水道を決開するに因り、湿気をして除去せしめ、獲る所の産利、前日に増す。随即前項の田畝を将て各村に派授し、翌年より起して以て耕種するを得たり。嗣後、自ら土性に応じて漸く肥え、産物も多きを加ふ。又都路川に有る所の小溝も、亦杣山川辺より改めて水道長さ四百三十間を決し、以て我部祖河村の水田の便と為る。又古我知・仲尾次・呉我の三村に有る所の水田は、旱魃に逢ふ毎に水乾涸に就く。該世英等、其の田の大川の水を注入するを見て、即ち其の田より小溝を決鑿す。長さ一百七十三間。其の水を他の田に導入して以て旱魃の憂を杜ぐ。又該湿地下面に、原、大路有り。大雨に逢ふ毎に、瀦水氾濫して人馬の往還に便ならず。該世英等、其の路辺に在りて、川を決して水を注ぎ、木橋を設架す。時に厥の後より雨天に逢ふと雖も、並も往還の妨無し。永く郡中の益と為る。